今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
閑話
大人なんてどうせ
「お疲れさまでした」
詠はぺこりと頭を下げて、現場から車に乗り込んだ。
車の中で台本の次の撮影のシーンにざっと目を通した後、英会話教室でもらった〝日常生活でよく使うフレーズ〟と書かれた紙を眺めた。
綺麗に化粧をした自分の顔が、濃いスモークを張った後部座席の窓ガラスに映る。
また、冴えない顔をしている。考えても仕方がない事を考えているときは、決まってこんな顔をしている。
少しだけ視点を外に変えると、同じくらいの年齢の女の子が数人、制服を着て楽しそうにはしゃぎながら道を歩いている。
道端で見る同じ年くらいの女の子は、なぜかみんな幸せそうに見える。
自分以外がみんな、幸せそう。
母親が作家で、子どもが芸能人で、父親がいないという境遇が同じ家庭なんて、そうそう見つかるものじゃない。
比べるだけ無駄だと心の底から思っているからこその諦め。
いったいいつから自分はこんなに諦めがいい子になったのか、もう、思い出せない。
母親に認めてほしくて始めた役者の仕事は楽しくやっている。だけど、本当にこのままでいいのだろうかと思う時がある。だからと言って、これ以外何がしたいのかは思いつかないのだが。
母親が好きで好きで誰よりも認めてもらいたいと思った自分と今の自分は、まるで別人のよう。
関わるつもりはないのだから考えなければいいのに、リビングにいると嫌でも母が頭に浮かぶ。
子どもの足では届かない背の高い椅子が置かれたバーさながらのカウンター。ご立派なワインセラー。壁かけの大きなテレビ。大家族が座ったって余るソファー。夜景。
リビングに対して昔から感じていた違和感。
でもそれは長い間ずっと不明確で。
成長した今でははっきりとした言葉にできる。
〝東京〟を煮詰めたようなこのリビングが、大嫌い。
どこにも逃げ場がないようなマンションではなくて、自然が豊かな広々とした一軒家の方がずっといい。
この無機質な家でどんなふうに母親に向き合って笑顔を作っていたのか、もうほとんど思い出せない。
親を必要とする時と言ったら、未成年として親の同意が必要な時。
たった、それだけ。
お小遣いや携帯代、祖父母の家に行くお金もここ数年は自分で払っている。それを他の家庭とは違う事に気付いていながら、何かを変えようとは思わない。
「詠ちゃん。わかってあげて。きっとあなたのお母さん、詠ちゃんの事を大切に思ってる。ただ、不器用なだけだと思うの」
きっと小梢は〝不器用〟という言葉の本当の意味を知らないのだと思う。
「小梢さん。不器用な人はね、小さな子どもを一人で育てながらお話を作ったりできないよ」
「そうだけど……。そうだけど、そうじゃないのよ。詠ちゃんにはまだ難しいかもしれないけど、きっとお母さん、あなたの事大切に思ってる」
小梢の母に対する言葉が耳を通り抜けるようになったのは、一体いつから。
小梢がこんな心配そうな顔をするようになったのは、一体いつから。
「小梢さん。私、なにか小梢さんに心配かけてるのかな」
詠がそう言うと小梢はもの言いたげな顔をしたが、詠がしばらく待ってみても、小梢は口を開かなかった。
「私は別に、お母さんの事を嫌ってるわけじゃないよ。でも、お母さんが私をどう思っているかはわからない」
「きっと大切に思ってるわ」
どうして小梢がこんなに自信を持って、母が自分を大切に思っていると口にできるのか、詠には到底理解できなかった。
子どもだからだろうか。
まだ子どもで親の気持ちがわからないから、母親の自分に対する態度を理解できないのだろうか。
小梢は側で咲村家を見てきた。だから小梢のいう〝母は詠を大切にしている〟という言葉は、まぎれもない真実なのかもしれない。
しかし、同意はできなかった。
それは自分が子どもで、母が大人だから埋まらない溝があるからではなくて。
頭の中に響の顔が浮かぶから。
「それはさ、小梢さん。私が感じなきゃ意味ないの」
はっきりとした口調でそういう詠を、小梢はどこか寂しそうな顔で見つめている。詠はその視線を真正面から受け止めて、しっかりと小梢の目を見返した。
強がっているとか、この子は間違ったと解釈しているとか、そんな勘違いをされたくなかったから。
「きっと大切に思ってくれているんだろうなって、私自身が思わなきゃ意味ないんだよ。演技も一緒だよ。伝えたいって思ってないものは、気持ちが入っていない演技は、誰にも伝わらないの」
響の祖母は会うたびにいつも、一年間見てきた〝咲村詠〟の事を嬉しそうに話してくれる。響はいつだって、本当の咲村詠と真っ直ぐに向き合ってくれる。
「私はお母さんがどう思っているのかわからないけど、少なくとも私はもう、お母さんからの思いやりとか優しさとか、そういうものを待っている事には飽きちゃったの」
「私はあなたのお母さんと話をしていて、あなたを大切にしていると思うのよ、詠ちゃん」
これ以上はもう、今の自分にはわからない。
しかし詠は「わかった」と呟いた。本当は何一つ、わからない。
わからない事はわからないと口に出して言いましょう。と、小学生の時にそう習った。
しかし、わからないものはわからないと、最近よく思う。
本当に理解しようという気持ちも、思い入れも、何もないものにどれだけ時間をかけたって理解できない。
大人はいつだって、そんな工程は度外視して精神論だけを話して聞かせる。
自分達は大人になったって、何も体現できていないくせに。
小梢は母には〝詠が寂しがっている〟とか〝もっと向き合ってあげて〟とか、そんな強気な言葉は一度だってかけていないだろう。
損をするのは、我慢をするのは、意見を押し殺すのは、いつだって子どもの方。
大人の方がずっとずっと、自由なはずなのに。
大人になれば自由なら、響とずっと一緒にいられるのだろうか。
それは一体、どんな形で。
気付けば卒業式、入学式が終わった。
漠然とした不安を、もうここ数年ずっと抱えている。
もう高校生になった。
こうやって段々、大人になっていく。
会いたい、響に会いたい。
桜の木にはもう桃色の花は残っていない。
気持ちがはやってどうしようもない。
さっさとたくさんの雨が降ってほしい。雨が降ればやっと、次の季節が来る。
どれだけカレンダーを眺めても、一日は一日分の長さでしか進まない。
どうして一日はこんなに長いのだろう。響に会っている二週間は、あっという間に過ぎていくのに。
やっとカレンダーのバツ印は、花丸印に追いついた。
詠はぺこりと頭を下げて、現場から車に乗り込んだ。
車の中で台本の次の撮影のシーンにざっと目を通した後、英会話教室でもらった〝日常生活でよく使うフレーズ〟と書かれた紙を眺めた。
綺麗に化粧をした自分の顔が、濃いスモークを張った後部座席の窓ガラスに映る。
また、冴えない顔をしている。考えても仕方がない事を考えているときは、決まってこんな顔をしている。
少しだけ視点を外に変えると、同じくらいの年齢の女の子が数人、制服を着て楽しそうにはしゃぎながら道を歩いている。
道端で見る同じ年くらいの女の子は、なぜかみんな幸せそうに見える。
自分以外がみんな、幸せそう。
母親が作家で、子どもが芸能人で、父親がいないという境遇が同じ家庭なんて、そうそう見つかるものじゃない。
比べるだけ無駄だと心の底から思っているからこその諦め。
いったいいつから自分はこんなに諦めがいい子になったのか、もう、思い出せない。
母親に認めてほしくて始めた役者の仕事は楽しくやっている。だけど、本当にこのままでいいのだろうかと思う時がある。だからと言って、これ以外何がしたいのかは思いつかないのだが。
母親が好きで好きで誰よりも認めてもらいたいと思った自分と今の自分は、まるで別人のよう。
関わるつもりはないのだから考えなければいいのに、リビングにいると嫌でも母が頭に浮かぶ。
子どもの足では届かない背の高い椅子が置かれたバーさながらのカウンター。ご立派なワインセラー。壁かけの大きなテレビ。大家族が座ったって余るソファー。夜景。
リビングに対して昔から感じていた違和感。
でもそれは長い間ずっと不明確で。
成長した今でははっきりとした言葉にできる。
〝東京〟を煮詰めたようなこのリビングが、大嫌い。
どこにも逃げ場がないようなマンションではなくて、自然が豊かな広々とした一軒家の方がずっといい。
この無機質な家でどんなふうに母親に向き合って笑顔を作っていたのか、もうほとんど思い出せない。
親を必要とする時と言ったら、未成年として親の同意が必要な時。
たった、それだけ。
お小遣いや携帯代、祖父母の家に行くお金もここ数年は自分で払っている。それを他の家庭とは違う事に気付いていながら、何かを変えようとは思わない。
「詠ちゃん。わかってあげて。きっとあなたのお母さん、詠ちゃんの事を大切に思ってる。ただ、不器用なだけだと思うの」
きっと小梢は〝不器用〟という言葉の本当の意味を知らないのだと思う。
「小梢さん。不器用な人はね、小さな子どもを一人で育てながらお話を作ったりできないよ」
「そうだけど……。そうだけど、そうじゃないのよ。詠ちゃんにはまだ難しいかもしれないけど、きっとお母さん、あなたの事大切に思ってる」
小梢の母に対する言葉が耳を通り抜けるようになったのは、一体いつから。
小梢がこんな心配そうな顔をするようになったのは、一体いつから。
「小梢さん。私、なにか小梢さんに心配かけてるのかな」
詠がそう言うと小梢はもの言いたげな顔をしたが、詠がしばらく待ってみても、小梢は口を開かなかった。
「私は別に、お母さんの事を嫌ってるわけじゃないよ。でも、お母さんが私をどう思っているかはわからない」
「きっと大切に思ってるわ」
どうして小梢がこんなに自信を持って、母が自分を大切に思っていると口にできるのか、詠には到底理解できなかった。
子どもだからだろうか。
まだ子どもで親の気持ちがわからないから、母親の自分に対する態度を理解できないのだろうか。
小梢は側で咲村家を見てきた。だから小梢のいう〝母は詠を大切にしている〟という言葉は、まぎれもない真実なのかもしれない。
しかし、同意はできなかった。
それは自分が子どもで、母が大人だから埋まらない溝があるからではなくて。
頭の中に響の顔が浮かぶから。
「それはさ、小梢さん。私が感じなきゃ意味ないの」
はっきりとした口調でそういう詠を、小梢はどこか寂しそうな顔で見つめている。詠はその視線を真正面から受け止めて、しっかりと小梢の目を見返した。
強がっているとか、この子は間違ったと解釈しているとか、そんな勘違いをされたくなかったから。
「きっと大切に思ってくれているんだろうなって、私自身が思わなきゃ意味ないんだよ。演技も一緒だよ。伝えたいって思ってないものは、気持ちが入っていない演技は、誰にも伝わらないの」
響の祖母は会うたびにいつも、一年間見てきた〝咲村詠〟の事を嬉しそうに話してくれる。響はいつだって、本当の咲村詠と真っ直ぐに向き合ってくれる。
「私はお母さんがどう思っているのかわからないけど、少なくとも私はもう、お母さんからの思いやりとか優しさとか、そういうものを待っている事には飽きちゃったの」
「私はあなたのお母さんと話をしていて、あなたを大切にしていると思うのよ、詠ちゃん」
これ以上はもう、今の自分にはわからない。
しかし詠は「わかった」と呟いた。本当は何一つ、わからない。
わからない事はわからないと口に出して言いましょう。と、小学生の時にそう習った。
しかし、わからないものはわからないと、最近よく思う。
本当に理解しようという気持ちも、思い入れも、何もないものにどれだけ時間をかけたって理解できない。
大人はいつだって、そんな工程は度外視して精神論だけを話して聞かせる。
自分達は大人になったって、何も体現できていないくせに。
小梢は母には〝詠が寂しがっている〟とか〝もっと向き合ってあげて〟とか、そんな強気な言葉は一度だってかけていないだろう。
損をするのは、我慢をするのは、意見を押し殺すのは、いつだって子どもの方。
大人の方がずっとずっと、自由なはずなのに。
大人になれば自由なら、響とずっと一緒にいられるのだろうか。
それは一体、どんな形で。
気付けば卒業式、入学式が終わった。
漠然とした不安を、もうここ数年ずっと抱えている。
もう高校生になった。
こうやって段々、大人になっていく。
会いたい、響に会いたい。
桜の木にはもう桃色の花は残っていない。
気持ちがはやってどうしようもない。
さっさとたくさんの雨が降ってほしい。雨が降ればやっと、次の季節が来る。
どれだけカレンダーを眺めても、一日は一日分の長さでしか進まない。
どうして一日はこんなに長いのだろう。響に会っている二週間は、あっという間に過ぎていくのに。
やっとカレンダーのバツ印は、花丸印に追いついた。