今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
閑話

役者として

 あくびをかみ殺すスタッフに、大きな声で雑談をするスタッフ。
 この現場はやる気がない。
 だからどうしても、気分が乗らない。スタッフの雰囲気の良し悪しは、演者にダイレクトに影響する。

 ダウンジャケットとマフラーが手放せない時期に行う、設定上はひとつ先の季節の撮影。

 詠は白い息が出ないように、もう何個口に含んだかわからなくなった氷で口の中の温度を下げた。
 俳優はテレビ越しの人が思っているよりもずっと体力勝負。

 スタッフが普通に長袖を着込んでいる中、薄着で寒い思いをしているのだから退屈そうにするのはやめてほしい。
 さっさと終わりにしたいのはお互い様だ。

「はーい。いいでーす」

 監督の声が聞こえて、詠はさっさとダウンジャケットを着た。
 こんな現場を経験するとき、演技をするのが馬鹿らしく感じる。

 しかし詠はその時にいつも響と響の祖母を思い出していた。それから颯真と、鈴夏の事も。
 遠く離れているけれど、みんなが見ていてくれる。一方的ではあるけれど、それは詠からあの田舎に向けて唯一、元気にやっている、と見せられる機会だった。

 桜が咲く季節。
 過去に一度ノミネートされたことのある賞で、今回初めて新人最優秀賞を取った。
 大人たちを横目に壇上に上がる。嬉しい気持ちよりも、緊張が勝っていた。

「この度はこんな素敵な賞をいただいて、ありがとうございます。まさか、自分がいただけるとは思っていなかったのですが……」

 撮影したのは一昨年。公開されたのは去年。
 演じ切った事を改めて思い出して思うのは、人間の愛の形はいろいろとあるという事。
 虐待されて育った子が愛を探し、知るお話。
 虐待の傷は、母から受けた精神的な苦痛を大きく増幅させて。愛は、響や響の祖母から貰ったあの温かい気持ちをそのまま。雑誌を買って持っていてくれたことも、綺麗になったと褒めてくれたことも、全部。

 自分の持っているものを全て吐き出した役だった。ここ数年、家族もののドラマや映画では暗い雰囲気の役が多い。
 しかし詠はこの映画に特別な思い入れのようなものがあった。頭から離れない事が一つある。

 育児のストレスから虐待に走った母親役の女優が見せた出産の回想シーン、赤ちゃんを初めて胸に抱いた時の表情。
 言葉にしなくても伝わるほど嬉しそうな顔で、泣いていた。

 これはNGだろうと思っていたのに、監督はその演技を大絶賛。
 生まれた時にそれほど嬉しいなら、どうしてその子どもにつらい思いをさせるのだろう。
 どう気持ちが変化すれば、あれほど酷い虐待に走るのだろう。今持っているものだけでは埋められない何かが間違いなくそこにはある。

 やはり自分はまだ、子どもなのだろうか。

 詠はステージの上で笑顔を見せる。
 響と響の祖母は、この放送を見ていてくれているかもしれないから、せめて綺麗に笑おうと思って。

 差し障りのない事を言ってから降壇する。
 それから当然しばらくの間、詠の知り合いは騒がしかった。

「ただいまー」

 学校帰りの誰もいない家に、昔からの習慣で言う。

「詠ちゃん、おかえりなさい」

 中からかすかに聞こえた小梢の声に、詠は靴をそろえてから長い廊下を抜けた。

「小梢さん、どうしたの? こんな時間に」
「話したいことがあって、待っていたの」

 一緒に食事をするときはお互いに予定を確認し合う。何も言わないで小梢が待っているという事実が、なんとなくいい話ではないと詠に予感させた。
 詠はとっくに足が届くようになったアイランドキッチンのカウンターに座った。小梢もその隣に腰を下ろす。

「実は私、家政婦のお仕事を辞める事にしたの」
「どうして急に?」
「娘夫婦が離婚しちゃってね。まだ孫が小さくて手がかかるから、保育園の送り迎えとかいろいろあって続けられそうにないのよ」

 幼い頃から小梢を知っている。
 いつか子どもが結婚して孫が生まれたら。そんな話をしていたかと思えば結婚して、孫ができて。それから、離婚して。

 詠はこの東京で、このいつまでたっても居心地の悪い飾られた店のような家の中で、時間が流れていることを改めて実感した。

 みんな、変わっていく。
 いつか演じた作品の中で、〝変わっていくことは悪い事じゃないよ〟というセリフを誰かが言ったことを詠は思い出す。

 悪い事ではないかもしれないけれど、今を生きる自分たちにとっては、とても悲しい事のような気がした。

「……そうなんだ」
「今までありがとう、詠ちゃん。私、詠ちゃんから幸せをたくさんもらったわ」

 そう言って小梢は、詠の手を握った。

「何言ってるの小梢さん。お礼を言わないといけないのは私の方だよ」

 詠は自分の知っている幼い頃よく繋いでくれた小梢の手を思い出した。
 そのころよりもずっと、小梢の手は乾燥している。一体いつから小梢の手は、こんなに疲れてしまっていたのだろう。考えてみても、心当たり一つ浮かばなかった。

「最後にお茶でもどう?」

 そういう小梢の言葉に同意すると、小梢はレモングラスティーを入れてくれた。
 お茶を飲みながら、懐かしい話をたくさんした。
 学校の行事に参加してうまく立ち回ってくれたのも、芸能人として生きてこられたのも、全て小梢のおかげだ。

「お母さんがいなくて寂しかったとき、小梢さんがいてくれたから頑張れたんだよ。本当にありがとう、小梢さん」

 自分の中にあるありったけの感謝を込めて詠はそういう。
 改めて言えば照れくさくて。母の日に感謝の気持ちを表す女子高生はこんな気持ちなのかもしれないと思った。

「頑張ってね詠ちゃん。これからはテレビの向こうで応援してるから」

 帰り際、小梢は玄関のドアを開けて振り返りながら言った。
 その言葉を最後に、ドアが閉まる。

 それは流れとしては完璧な当然の別れの言葉のように思えた。

 しかし昔から知っている小梢のその言葉は、自分が芸能人であることを心のもっと深い部分で思い出し、それから理解した。

 小梢のように応援してくれている人がいて初めて成り立つ仕事だ。

 現場が嫌だとか、スタッフの態度が悪いだとか。そんなことはわがままなのかもしれない。
 役者の仕事は移り変わりが激しくて、役者が一人いなくなったとしても他の人であっさりと埋められて、居場所はあっと言う間に奪われてしまう。

 響ともっと一緒にいたい。
 でもそれはきっと、誰かにとっては〝咲村詠〟のわがまま。

 もう高校一年生は終わった。
 東京での一日は最近、長いようで短い。

 高校受験をしておらず、これまで自分で選ぶという事をしてこなかった詠は、途方もない選択肢の中で身動きが取れずにいた。

 高校を卒業した先で、どんな人生を歩けばいいのか。
 その全部が、自分の責任。

 何かに寄り掛かってしまいたくて。寄り掛かってしまいたいと思うたび、響に会いたくなる。
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