今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
閑話
あたたかい響きのはず
高校三年生になった。
新しいクラスでは担任が、この一年がどれだけ大切でどれだけ人生を左右するかという話を熱く語っている。
どうでもいい。どうにでもなる。
東京とはそういう場所だと、詠は知っていた。
「進学はしません。芸能活動に集中します」
就職を選ぶ生徒はまずいない中、詠は聞かれる度に決まり文句のようにその言葉を繰り返した。
芸能人はそんなものなのだろうと思うのか、教師はそれ以上何も言わない。しかし実際、詠の中で答えが出ているわけではなかった。
詠は何度も、あの田舎で生活している自分を思い描いてみた。しかしそれはいつも、上手くいかない。
自分の力だけでは生きていけないというのは、どういう感覚なのだろう。田舎の狭い世界で誰かと力を合わせて暮らすというのは、母親にしてきたように他人の機嫌をうかがって自分を殺すという事に近いのだろうか。
だったらそれは自分が一番苦手としていることだと、詠は知っていた。
去年も答えは出なかった。芸能活動に集中するとしても、夏の二週間仕事を調節することは簡単ではないが出来ないことはないだろう。
とにかくこの家を出て……。そう思って考える。どうせ家を出るなら、あの田舎に。しかしあの場所には、単身でやってくる人間を受け入れる住居はなさそうで。離れているとなると、車が必要で、免許が必要で。いやそもそも、何の仕事で生計を立てるというんだ。
現実を直視してため息を吐き捨てる。心は明らかにあの田舎に向いているのに、いつも思考がそれを阻む。
響がいないなら、あの場所は縁も所縁も、なじみもない場所。
詠はリビングで食事を終えてから、皿を洗おうと立ち上がる。
小梢が家政婦の仕事をやめてから母は別の家政婦を呼ぶと言っていたが、もう高校生なのだから自分のことくらい自分でできると断った。
それからは週に数回、掃除や洗濯を家事代行サービスで利用していた。
食事は自分で作ったり、弁当を届けてもらったり。生活は何一つ困っていない。
玄関のドアが開く音がした。いつもより早い、母の帰宅。
楽しみだったこの音が警戒心を煽るだけの音になったのは、一体いつからだろう。
「おかえり」
「ただいま」
リビングに入ってくる母にさらりとした口調で言うと、母は荷物をカウンターに置きながら目も合わせずに返事をする。
「好きな人がいるの?」
唐突に母からそう言われて、一瞬何の話をしているのかと思った。自分に好きな人がいるから再婚するとかそんな話だろうかと思ったが、それだと疑問形はおかしな話だ。
恋愛話をするほど親密な親子関係だっただろうかと記憶を辿ったが、そんなはずはない。
「なに急に」
「なんだかここ最近、様子がおかしいから」
ここ最近というのは一体いつだろう。少なくともこの事は一年以上前から悩んでいる訳で、最近ではない。そもそも毎日数分顔を合わせればいい方の親子関係に様子をうかがう時間などありはしないと思うのだが。
「お母さんに迷惑はかけないよ」
曖昧に返事をする。深く突っ込まれれば上辺だけさらっと話をして部屋に戻ればいいし、このまま無言ならそれでいい。
「仕事、辞めようと思ってるの?」
「どうだろう。まだ決めてない」
手を洗った後、金属の輪にぶら下がったタオルで手を拭いた。
「そんなことで人生を棒に振るのはやめなさいね」
一瞬、母が何を言っているのかわからなかった。
母がどんな権限を持ってして誰にアドバイスをしているのかも、詠にはすぐに理解できなかった。
詠は思わず母を見たが、母はすでにソファーに腰かけていた。〝親として当然の事〟とでも言いたげに、目も合わせずに。
「えっ。……私に言ってるの?」
「一人でも生きていけるようにしなさい。それが自分のためよ。仕事を辞めるなんてバカげてる」
母の言葉の意味を理解して心の深い所まで落ち込んだ後は、それを燃料にフツフツと怒りが湧きあがってきた。
「いまさら何!?」
自分の考えを否定されたから。そんな単純な怒りではない。
今まで何もしてこなかったくせに。この人の言動に親としての愛を感じた事なんてない。もしそれが、自分の経験則から導き出される子どもに対する純粋なアドバイスなのだとしても、絶対に受け入れる事はない。
「今までずっと、仕事仕事でまともに子どもに構いもしなかったくせに! 自分の考えと違う事だけ、偉そうに説教しないでよ!!」
詠はリビングから飛び出すと、廊下を足早に駆けて部屋のドアを大きな音を立てて閉じた。
頭の中を母の言葉が占拠する。
『一人でも生きていけるようにしなさい』
あの田舎での暮らしはあまりにも、母の言葉から遠い。
わかっている事をもう一度刷り込まれたような感覚。
それも、一番言われたくない人に。
「……響」
ぼんやりと呟いた声が、鼓膜を通る。
大都会東京にその名前の響きは、どこまでも似合わない。
どこまでも似合わないと思って、それから初めて寂しい東京で温かい名前を耳に通したことに気が付いた。
新しいクラスでは担任が、この一年がどれだけ大切でどれだけ人生を左右するかという話を熱く語っている。
どうでもいい。どうにでもなる。
東京とはそういう場所だと、詠は知っていた。
「進学はしません。芸能活動に集中します」
就職を選ぶ生徒はまずいない中、詠は聞かれる度に決まり文句のようにその言葉を繰り返した。
芸能人はそんなものなのだろうと思うのか、教師はそれ以上何も言わない。しかし実際、詠の中で答えが出ているわけではなかった。
詠は何度も、あの田舎で生活している自分を思い描いてみた。しかしそれはいつも、上手くいかない。
自分の力だけでは生きていけないというのは、どういう感覚なのだろう。田舎の狭い世界で誰かと力を合わせて暮らすというのは、母親にしてきたように他人の機嫌をうかがって自分を殺すという事に近いのだろうか。
だったらそれは自分が一番苦手としていることだと、詠は知っていた。
去年も答えは出なかった。芸能活動に集中するとしても、夏の二週間仕事を調節することは簡単ではないが出来ないことはないだろう。
とにかくこの家を出て……。そう思って考える。どうせ家を出るなら、あの田舎に。しかしあの場所には、単身でやってくる人間を受け入れる住居はなさそうで。離れているとなると、車が必要で、免許が必要で。いやそもそも、何の仕事で生計を立てるというんだ。
現実を直視してため息を吐き捨てる。心は明らかにあの田舎に向いているのに、いつも思考がそれを阻む。
響がいないなら、あの場所は縁も所縁も、なじみもない場所。
詠はリビングで食事を終えてから、皿を洗おうと立ち上がる。
小梢が家政婦の仕事をやめてから母は別の家政婦を呼ぶと言っていたが、もう高校生なのだから自分のことくらい自分でできると断った。
それからは週に数回、掃除や洗濯を家事代行サービスで利用していた。
食事は自分で作ったり、弁当を届けてもらったり。生活は何一つ困っていない。
玄関のドアが開く音がした。いつもより早い、母の帰宅。
楽しみだったこの音が警戒心を煽るだけの音になったのは、一体いつからだろう。
「おかえり」
「ただいま」
リビングに入ってくる母にさらりとした口調で言うと、母は荷物をカウンターに置きながら目も合わせずに返事をする。
「好きな人がいるの?」
唐突に母からそう言われて、一瞬何の話をしているのかと思った。自分に好きな人がいるから再婚するとかそんな話だろうかと思ったが、それだと疑問形はおかしな話だ。
恋愛話をするほど親密な親子関係だっただろうかと記憶を辿ったが、そんなはずはない。
「なに急に」
「なんだかここ最近、様子がおかしいから」
ここ最近というのは一体いつだろう。少なくともこの事は一年以上前から悩んでいる訳で、最近ではない。そもそも毎日数分顔を合わせればいい方の親子関係に様子をうかがう時間などありはしないと思うのだが。
「お母さんに迷惑はかけないよ」
曖昧に返事をする。深く突っ込まれれば上辺だけさらっと話をして部屋に戻ればいいし、このまま無言ならそれでいい。
「仕事、辞めようと思ってるの?」
「どうだろう。まだ決めてない」
手を洗った後、金属の輪にぶら下がったタオルで手を拭いた。
「そんなことで人生を棒に振るのはやめなさいね」
一瞬、母が何を言っているのかわからなかった。
母がどんな権限を持ってして誰にアドバイスをしているのかも、詠にはすぐに理解できなかった。
詠は思わず母を見たが、母はすでにソファーに腰かけていた。〝親として当然の事〟とでも言いたげに、目も合わせずに。
「えっ。……私に言ってるの?」
「一人でも生きていけるようにしなさい。それが自分のためよ。仕事を辞めるなんてバカげてる」
母の言葉の意味を理解して心の深い所まで落ち込んだ後は、それを燃料にフツフツと怒りが湧きあがってきた。
「いまさら何!?」
自分の考えを否定されたから。そんな単純な怒りではない。
今まで何もしてこなかったくせに。この人の言動に親としての愛を感じた事なんてない。もしそれが、自分の経験則から導き出される子どもに対する純粋なアドバイスなのだとしても、絶対に受け入れる事はない。
「今までずっと、仕事仕事でまともに子どもに構いもしなかったくせに! 自分の考えと違う事だけ、偉そうに説教しないでよ!!」
詠はリビングから飛び出すと、廊下を足早に駆けて部屋のドアを大きな音を立てて閉じた。
頭の中を母の言葉が占拠する。
『一人でも生きていけるようにしなさい』
あの田舎での暮らしはあまりにも、母の言葉から遠い。
わかっている事をもう一度刷り込まれたような感覚。
それも、一番言われたくない人に。
「……響」
ぼんやりと呟いた声が、鼓膜を通る。
大都会東京にその名前の響きは、どこまでも似合わない。
どこまでも似合わないと思って、それから初めて寂しい東京で温かい名前を耳に通したことに気が付いた。