今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
追章

初恋にさようならを

 懐かしい。
 もう昔の事。海外に行く前にこの場所に来た時と同じ感覚。詠はそれすらも懐かしいと思っていた。

 だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停と、その奥には古い小学校。右手には山の麓まで続く田園と、いくつかの家。山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。

 しかし、海外に旅立つ前に来た時よりもずっと、時間の流れを感じる。
 小学校側には新しい家が目立つ。田舎、という先入観からだろうか。真新しい家達は、全くこの景色になじめていない。

 古い建物に交じって、新しい家がいくつも建っている。しかし詠は、以前そこに何があったのか、一つとして思い出すことはできなかった。

 しばらく道なりに進み、分かれ道で先ほどよりも少し細い道に入る。

「着いたよー」
「運転ありがとう」
「どういたしまして」

 秋良は咲村旅館の向かいにある駐車場に車を停めた。
 助手席のドアを開けると、まだ車内に残った冷房の空気を押しのけて熱い空気が入り込んでくる。サンダルを履いた足を地面に足を付けると、足の甲がじりじりと熱くなった。

「足元気を付けてね、詠」
「大丈夫」

 詠は車を降りると道の向こうにある咲村旅館を眺めた。いつもこの旅館に泊まった。子どもの頃はよくわからなかったが、大人になって見ると随分と趣のある場所だ。夜に酒でもやりたくなるような。

 三人分と詠の母の分の荷物まで持つ秋良の代わりに、詠はスライドドアを閉めた。

 詠は旅館を正面に、商店街の左右を見た。店だった場所のほとんどにシャッターが閉まっている。自分が子どもの頃はまだ、営業をしていた店の方が多かったのに。
 そんなことを考えながら、旅館の中に足を踏み入れた。

 大人になって改めて見てみても、このエントランスの雰囲気はやはりサスペンスに出てくる旅館だった。

「おばあちゃん、おじいちゃん。久しぶり」

 詠が少し大きな声でそう言うと、祖父母は嬉しそうに笑いながらカウンターの向こうから出てきた。
 年を重ねたからだろうか。二人の笑顔は、詠が最後に見た時よりも穏やかな気がした。
 この旅館は数年前に閉めたらしい。以前よりも少し、埃の匂いが強くなった。

「あらー、待ってたよ。詠ちゃん、ゆっくりして行ってね」
「ありがとう、おばあちゃん。紹介するね。夫の秋良と、娘の秋音です」

 少し改まってそう言うと、二人は口々に挨拶をした。
 祖父母は嬉しそうにほほ笑んで数回うなずいた。

「久しぶり。お母さん、お父さん」

 一番後ろでそう言う詠の母は、緊張している様子だった。

「おお。ゆっくりして行き」

 祖父はたったそれだけ呟くと、大して顔を見る事なくカウンターの向こうに消えた。祖母は「本当に久しぶりね」と言いながら、母の肩を力強く数回叩いて嬉しそうな顔でうっすらと目に涙を浮かべていた。

「詠ちゃんが初めてここに来たのも、秋音ちゃんくらいの年齢やったね」

 泊まる部屋に向かいながら、祖母はそう言った。

「ママ、どんな子どもだったの?」
「朝から晩まで外で元気に遊ぶ、活発な子だったよ」
「えー。ママが? カフェで友達とずっと話してそうなのに」
「とんでもない。お昼ご飯を食べたら携帯も財布も置いて、すぐここを飛び出して行ってたんだから」
「ママ、ここで何してたの?」

 まさか質問が飛んでくるとは思わなかった詠は気を抜いて旅館の様子を眺めていたが、すぐに笑顔を作った。

「東京にはないものを見てたの」
「出た。ママの秘密主義だ」
「秘密主義って?」

 何の気なしに答える詠に、秋音はいつもの事とでも言いたげにあっさりした様子で返事をする。
 それに問いかけたのは詠の祖母だった。

「時々こうやって、私が何を聞きたいのか気付いているくせに話を逸らすの。ね! パパ」

 娘に同意を求められた秋良は曖昧に笑って「誰にでも言いたくない事はあるものだよ」と言った。

 過去を聞かれる時、曖昧な返事をする。
 俳優業に全力になる前の人生、いや、それから先も役者として生きてきた時間の全ては、響が基準だった。
 長期休みが練習で潰れる部活には入らないようにしていて、そのために仕事を調節した。
 人生を、出来事を、誰かに語って聞かせるには必ずそこに、響の存在がある。

「ここの部屋を使って。菫は隣の部屋ね」

 案内された部屋はいつも詠が使っていた部屋よりも広い部屋。エントランスの埃っぽさが全くない、綺麗な空気。
 毎年部屋を開けた時もこんな空気だったのだろうか。思い出せない。大人になったから感じ方が変わったのだろうか。

「自動販売機で飲み物を買ってくるよ」

 荷物を置いた後、秋良と秋音はそう言って部屋を出て行った。

「二人は?」
「自動販売機に行ったよ」

 自分の部屋に荷物を置いた母が部屋の中に入ってくる。
 その空間は、シンと静かだった。

 和解という和解があったわけではないが、詠が一方的に嫌っていた構図が終わったのは、海外での仕事を終えて日本に帰ってきてすぐの現場で倒れた時の事だ。

 連絡を受けた母は病院まで駆けつけて来て泣いた。どうして泣いているのかわからずに唖然とする詠に母は「ごめん」「育児から逃げてたの」「生きていくために強く自分を保っていないといけないと思った」そんなことを言った。
 だからずっと張り合っていたのが馬鹿らしくなっただけ。

 結局、倒れた原因は単に疲労が溜まっていただけという事だったので大事はなかった。母の事は別に許しているわけでも、怒っているわけでもない。しかし詠は、生涯この距離感で構わないと思っていた。

 もう、大人になった。

 今となれば、新人最優秀賞を取った作品の女優が見せた出産シーンの表情の意味が理解できる。あのシーンは、あの表情でなければいけなかった。

 子どもは愛しい。自分よりも大切で、自分がいなければ死んでしまう。
 そして、切羽詰まった育児の事も今ではよくわかる。化粧水一つつける暇がない、完全に自分以外の人間を時間軸にするストレス。もし、周りやパートナーからのサポートが受けられず、精神的に不安定で、多忙を極めていたら。
 そう考えるとほんの少しだけ〝虐待〟という言葉の意味を感じて、他人事ではないのが育児というものだ。

 母があの高層マンションを選んだ理由も何となく理解できた。きっと、自分の子どもが芸能人であることを考慮したセキュリティの為だったのだろう。
 あの家は大人になって思うと、凄くおしゃれで。きっと母は、親にできる事はお金を出す事だけと思っていたのだろうと、詠は何となくそう思っていた。

 ずいぶんと、大人になった。
 最後にここに来た時よりも、ずっと。

「久しぶりにゆっくり一人で散歩でもしてきたらどうね、詠ちゃん」

 祖母は穏やかな笑顔を浮かべてそう言う。
 自分の気持ちを全て知っているような笑顔だった。

 大人になるとわかる。大人は子どもをちゃんと見ていて、気持ちまで敏感に察してくれている事。 
 大人になって、人間は完ぺきではない事を知った。
 だから母の事は今はもう、何とも思っていない。

「うん。そうする」

 財布もスマートフォンも全てを部屋に残して、まずはこの旅館でいつも使っていた部屋を覗いた。太陽の光を受けて、埃がキラキラと光っている。畳はささくれて、テーブルの上には座布団が重ねられ、ものが部屋中を埋め尽くしていた。
 使っていた時の面影はないはずなのに、やはりどこかに懐かしさを感じる。記憶よりも、もっと曖昧。小さな何かが無数に集まって、心の内側に燈っているように思う、そんな感覚。

 それから詠は、商店街の中を歩いた。あの駄菓子屋はなくなっていて、代わりにはす向かいに新しい駄菓子屋がある。一本違う通りに出ると海が見える。キラキラと光を受けて輝いていた。フェンスを埋め尽くす朝顔。その前にある自動販売機で麦茶を買って、海を眺めた。
 遠くにはドライブ途中にちょうどよさそうなおしゃれなカフェがいくつかできていた。秋音が好きそうな店だ。

「暑い」

 独り言をつぶやいて、ペットボトルの口に唇を押し付ける。この海でビーチフラッグをした。水は思ったほど冷たくない事は、もう知っている。
 海辺を通って、海に背を向けて歩く。追い風に急かされて、あの日、汗を拭って駆け抜けた道へ。

 ふいに強い風に押されて、少しだけ俯いて帽子を押さえて振り返る。

 風が穏やかに肌を撫で髪をさらう一秒にも満たない間、幼い頃の自分が隣を走り去る幻を見た。
 それを追って、進行方向を向き直る頃には、風も幻も掻き消えていた。

 ヒールのないサンダルを見て、思わず笑顔になった。
 かぶっていた麦わら帽子を乱暴に引っ掴んで、走った。

 バス停。ひまわり畑に行った時に使った。
 小学校。夏祭りはきっと、今もあるだろう。
 向かいの畦道をひたすらに走る。ひとりぼっちの沈黙を隙間なく埋める、セミとカエルの大合唱。

 あの石造りの鳥居が、だんだんと近づいてくる。

 今日、秋良にすべてを話そう。
 芸能人ではない、咲村詠を大切にしてくれている秋良に。

 芸能活動を引退した今はもう、何にも縛られなくていい。

 だからあの日消えてしまった初恋に、さようならを。
 その前に、最後の約束を。
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