今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
最後の夏
でも、もうすぐお別れ
詠は赤い高級外車に乗り込んだ。子どものころ見た景色を大人の自分が見たらどう思うのか、少し楽しみでもある。
しがらみになったこの感情は、消えなくていい。
ただ、自分自身にもう響に振り回されているわけではなくて、自分の意志で役者として生きていくんだと教えてあげたい。
だから今更響と話をするなんて気まずい事がしたいとは思わないし、誰かに会いたい訳でもない。
ただ、あの場所で止まった夏を感じたい。
これを人は〝過去を清算する〟というのかもしれない。
今日は海外に出発する前日の早朝。何があっても、明日には日本を出ないといけない。
思い出の場所を回るつもりではあったが、たった一日、たった数時間。響と鈴夏と会う可能性の方が明らかに低い。
しかし、もしも偶然会ってしまったらと考えてドキドキと心臓が鳴った。
それから短く息を吐いて、首を横に振った。何のために最高の自分で来たんだ。化粧も完璧だ。時間が経ってもヨレないように精一杯工夫したし。服だってこの日の為に新調したし、美容室にも行った。
最高の自分だ。だからもし偶然会ったのだとしても、堂々としていればいい。
それでも踏ん切りがつかずにうじうじして車のハンドルを握るだけ。
詠は緊張するシーンの前と同様、目を閉じて大きく息を吸って吐き出した。
「私は日本を代表する、大女優さまよ」
そう言うと詠は何を考えるより先に車のエンジンをかけて、もう一度ハンドルを握った。
数時間運転し続けて、旅館の道路を挟んだ向かいにある屋外駐車場に車を止めて外に出る。
運転するためだけに履いていたスニーカーを脱ぎ捨てて、助手席の足元に置いてあるヒールに履き替えた。
ホテルのディナーくらいなら気にせずに入ることができる服装で来た。コツコツと高い所で鳴るはずのヒールの音は、整備が行き届いていない地面では鈍い音がする。
鍵を閉めながら愛車を振り返った。車が詳しい知り合いに聞いて今日の為にコーティングした赤い車は、光を反射して眩しく光っている。
東京ではどうという事もなかったのに、自分の恰好も車も、この田舎では明らかに浮いていて何もかもが場違いだ。
毎年楽しみにしていた場所に、今ではこれほど気合を入れないと来られない。自分が少し変わってしまったと頭に浮かんで、詠は振り切るように旅館に向かって歩いた。
短い下り坂を降りて道に出ると、小さな子どもの泣き声がした。
その瞬間、心臓が嫌な音を立てて、それから変な汗が噴き出した。まだ確認してもいないのに。しかし、そんな予感はよく当たる。
子ども抱えて灰色の軽自動車の後部座席から出てきたのは鈴夏。
記憶にある鈴夏よりほんの少しふくよかになっているが、間違いない。鈴夏は腕の中の子どもをあやすように身体を揺らしている。運転席のドアが開く。
見たくない。逃げ出したい。しかし、混乱して動く所か視線を動かす事さえできなかった。
運転席から降りてきたのは響、ではなく颯真だった。
颯真は急いで運転席のドアを閉めて外に出ると、すぐに鈴夏の側に駆け寄った。両手を広げた颯真に、鈴夏は微笑みながら首を振る。困ったように笑った颯真は、子どもに向かって何かを話しかけている。二人の声は確かに耳に届いているのに、頭で理解することができなかった。
二人から目を逸らせないまま立っていると、先に気が付いたのは鈴夏だった。
鈴夏は目を見開いて詠を見ていた。それに気づいた颯真がこちらを見る。彼も鈴夏と同じように目を見開いた。
「どういうこと……?」
なるべく真っ直ぐ二人の元に歩くように努めた。
7年前、響との子どもを産んだなら、運転席から出てくるのは響のはずで。
「詠ちゃん」
鈴夏は震える声で詠の名前を呼んだ。颯真は憐れむような顔で詠を見ていた。
響と鈴夏が結婚しているのなら、憐れなのは颯真も同じ事だ。
鈴夏は響と結婚したはず。いろいろあって再婚したのか。
だったら、小学生くらいの子どもがもう一人いるはずなのにそんな様子はない。
一体これはどういう事なのか。
どっちでもいい、どうでもいいから、はやくこの状況を説明して。続いた沈黙の中で視線を落とす、鈴夏に抱かれてすやすやと眠りについた子どもは、こんな状況でなければ笑ってしまうくらい、颯真にそっくりで。
「響は?」
その子を見つめたままほとんど無意識にそう呟いた。
響の面影はどこを探しても見当たらない。
「響はどこ?」
「知らない」
詠の言葉に被せるように、鈴夏は震える声で言った。
「知らない。何をしているのか、どこにいるのかも」
鈴夏は何を言っているんだろう。詠が顔を上げると、鈴夏はぽろぽろと大粒の涙を流して苦しそうな顔をしていた。
「……きっと探しても見つからないから……詠ちゃんは、忘れた方がいいよ。……響の事は、もう」
それなのに、声を震わせないように必死に平然を装っている。
7年前、電話口で泣いた鈴夏を思い出す。あの時も、こんな顔をしていたのかもしれない。
「鈴夏。いいよ、もう。もうやめよう」
颯真は詠の記憶のどんな彼よりも落ち着いた様子でそう言った。
この状況に、二人が知っていて自分が知らない何かがある。それは響に絡んでいるという事は分かった。
「詠ちゃんごめん。俺達、詠ちゃんを騙してた」
相槌を打つ余裕もなかった。ただ、颯真の口から言葉の続きが発せられるのをひたすらに待っていた。
「実は響、病気なんだ」
世界の全てが音を立てて止まった。そんな錯覚に陥ってすぐ、足元で何かが散らばる音がした。
気付いたら二人に背を向けていた。歩きにくいヒールを考えるより先に脱ぎ捨てて走った。
どこで間違えたんだろう。
どの時点だったら、それに気付けただろう。
いやでも、病気という話はそもそも嘘なのかもしれない。
じゃあ、響が病気だと颯真が騙すのはどうして。
考えても仕方がない事を、頭は勝手に考え出す。
バス停と小学校に背を向けて畦道へ。打ち付けるような心臓の鼓動が痛い。それでも走り続けた。心臓の音だけが内側に響いている。
鳥居の前で走るのをやめ、歩いて鳥居をくぐった。途端に疲れや足の痛みが襲ってくる。気付けば全身汗だくだった。
そしてはっとして立ち止まった。
どうして神社なんかに。行かないといけないのは、響の家なのに。
「詠?」
反射的に顔を上げると、そこには響がいた。
長い階段の真ん中あたり、詠から見て右の石段に寄り掛かっているのは間違いなく、大人になった響だった。彼は目を丸く見開いて詠を見ていた。
まだ鈴夏との関係を聞いたわけじゃない。何を騙していたのか聞いたわけじゃないのに、分かる気がした。
「何してるの、響。……こんなところで」
震える自分の声が耳に届いたから、泣いてしまうと思った。そう思ったから、詠は落ち着くように深呼吸をする。
「詠こそ。なんでここに居るの?」
「明日日本を出るから、最後にこの場所を見ておこうって思って」
「そっか」
「響は、どうして?」
「どうしてって。別に」
あっさりとそっけなくそう言った響をただ見ていた。
自分がどんな顔で彼を見ているのかは、わからなかった。
ただ言葉を待つ詠に観念したようにゆっくりと息を吐いた響は、詠が大好きなあの優しい顔で笑った。
「ただ、夏を待ってただけ」
ぶわっと涙が溢れて、それを見られないように俯いてさっと拭った。
「子どもは?」
「嘘だよ」
「じゃあ、鈴夏ちゃんとの結婚は?」
「それも嘘」
「……病気だって、本当?」
「それは本当」
「だったらこんなところにいないで……病院にいないとダメじゃん」
「もう退院してきた」
響はあっさりと言う。
7年ほど前の、電話口での出来事。
響はきっともう、長く生きていられないのだと思った。
しがらみになったこの感情は、消えなくていい。
ただ、自分自身にもう響に振り回されているわけではなくて、自分の意志で役者として生きていくんだと教えてあげたい。
だから今更響と話をするなんて気まずい事がしたいとは思わないし、誰かに会いたい訳でもない。
ただ、あの場所で止まった夏を感じたい。
これを人は〝過去を清算する〟というのかもしれない。
今日は海外に出発する前日の早朝。何があっても、明日には日本を出ないといけない。
思い出の場所を回るつもりではあったが、たった一日、たった数時間。響と鈴夏と会う可能性の方が明らかに低い。
しかし、もしも偶然会ってしまったらと考えてドキドキと心臓が鳴った。
それから短く息を吐いて、首を横に振った。何のために最高の自分で来たんだ。化粧も完璧だ。時間が経ってもヨレないように精一杯工夫したし。服だってこの日の為に新調したし、美容室にも行った。
最高の自分だ。だからもし偶然会ったのだとしても、堂々としていればいい。
それでも踏ん切りがつかずにうじうじして車のハンドルを握るだけ。
詠は緊張するシーンの前と同様、目を閉じて大きく息を吸って吐き出した。
「私は日本を代表する、大女優さまよ」
そう言うと詠は何を考えるより先に車のエンジンをかけて、もう一度ハンドルを握った。
数時間運転し続けて、旅館の道路を挟んだ向かいにある屋外駐車場に車を止めて外に出る。
運転するためだけに履いていたスニーカーを脱ぎ捨てて、助手席の足元に置いてあるヒールに履き替えた。
ホテルのディナーくらいなら気にせずに入ることができる服装で来た。コツコツと高い所で鳴るはずのヒールの音は、整備が行き届いていない地面では鈍い音がする。
鍵を閉めながら愛車を振り返った。車が詳しい知り合いに聞いて今日の為にコーティングした赤い車は、光を反射して眩しく光っている。
東京ではどうという事もなかったのに、自分の恰好も車も、この田舎では明らかに浮いていて何もかもが場違いだ。
毎年楽しみにしていた場所に、今ではこれほど気合を入れないと来られない。自分が少し変わってしまったと頭に浮かんで、詠は振り切るように旅館に向かって歩いた。
短い下り坂を降りて道に出ると、小さな子どもの泣き声がした。
その瞬間、心臓が嫌な音を立てて、それから変な汗が噴き出した。まだ確認してもいないのに。しかし、そんな予感はよく当たる。
子ども抱えて灰色の軽自動車の後部座席から出てきたのは鈴夏。
記憶にある鈴夏よりほんの少しふくよかになっているが、間違いない。鈴夏は腕の中の子どもをあやすように身体を揺らしている。運転席のドアが開く。
見たくない。逃げ出したい。しかし、混乱して動く所か視線を動かす事さえできなかった。
運転席から降りてきたのは響、ではなく颯真だった。
颯真は急いで運転席のドアを閉めて外に出ると、すぐに鈴夏の側に駆け寄った。両手を広げた颯真に、鈴夏は微笑みながら首を振る。困ったように笑った颯真は、子どもに向かって何かを話しかけている。二人の声は確かに耳に届いているのに、頭で理解することができなかった。
二人から目を逸らせないまま立っていると、先に気が付いたのは鈴夏だった。
鈴夏は目を見開いて詠を見ていた。それに気づいた颯真がこちらを見る。彼も鈴夏と同じように目を見開いた。
「どういうこと……?」
なるべく真っ直ぐ二人の元に歩くように努めた。
7年前、響との子どもを産んだなら、運転席から出てくるのは響のはずで。
「詠ちゃん」
鈴夏は震える声で詠の名前を呼んだ。颯真は憐れむような顔で詠を見ていた。
響と鈴夏が結婚しているのなら、憐れなのは颯真も同じ事だ。
鈴夏は響と結婚したはず。いろいろあって再婚したのか。
だったら、小学生くらいの子どもがもう一人いるはずなのにそんな様子はない。
一体これはどういう事なのか。
どっちでもいい、どうでもいいから、はやくこの状況を説明して。続いた沈黙の中で視線を落とす、鈴夏に抱かれてすやすやと眠りについた子どもは、こんな状況でなければ笑ってしまうくらい、颯真にそっくりで。
「響は?」
その子を見つめたままほとんど無意識にそう呟いた。
響の面影はどこを探しても見当たらない。
「響はどこ?」
「知らない」
詠の言葉に被せるように、鈴夏は震える声で言った。
「知らない。何をしているのか、どこにいるのかも」
鈴夏は何を言っているんだろう。詠が顔を上げると、鈴夏はぽろぽろと大粒の涙を流して苦しそうな顔をしていた。
「……きっと探しても見つからないから……詠ちゃんは、忘れた方がいいよ。……響の事は、もう」
それなのに、声を震わせないように必死に平然を装っている。
7年前、電話口で泣いた鈴夏を思い出す。あの時も、こんな顔をしていたのかもしれない。
「鈴夏。いいよ、もう。もうやめよう」
颯真は詠の記憶のどんな彼よりも落ち着いた様子でそう言った。
この状況に、二人が知っていて自分が知らない何かがある。それは響に絡んでいるという事は分かった。
「詠ちゃんごめん。俺達、詠ちゃんを騙してた」
相槌を打つ余裕もなかった。ただ、颯真の口から言葉の続きが発せられるのをひたすらに待っていた。
「実は響、病気なんだ」
世界の全てが音を立てて止まった。そんな錯覚に陥ってすぐ、足元で何かが散らばる音がした。
気付いたら二人に背を向けていた。歩きにくいヒールを考えるより先に脱ぎ捨てて走った。
どこで間違えたんだろう。
どの時点だったら、それに気付けただろう。
いやでも、病気という話はそもそも嘘なのかもしれない。
じゃあ、響が病気だと颯真が騙すのはどうして。
考えても仕方がない事を、頭は勝手に考え出す。
バス停と小学校に背を向けて畦道へ。打ち付けるような心臓の鼓動が痛い。それでも走り続けた。心臓の音だけが内側に響いている。
鳥居の前で走るのをやめ、歩いて鳥居をくぐった。途端に疲れや足の痛みが襲ってくる。気付けば全身汗だくだった。
そしてはっとして立ち止まった。
どうして神社なんかに。行かないといけないのは、響の家なのに。
「詠?」
反射的に顔を上げると、そこには響がいた。
長い階段の真ん中あたり、詠から見て右の石段に寄り掛かっているのは間違いなく、大人になった響だった。彼は目を丸く見開いて詠を見ていた。
まだ鈴夏との関係を聞いたわけじゃない。何を騙していたのか聞いたわけじゃないのに、分かる気がした。
「何してるの、響。……こんなところで」
震える自分の声が耳に届いたから、泣いてしまうと思った。そう思ったから、詠は落ち着くように深呼吸をする。
「詠こそ。なんでここに居るの?」
「明日日本を出るから、最後にこの場所を見ておこうって思って」
「そっか」
「響は、どうして?」
「どうしてって。別に」
あっさりとそっけなくそう言った響をただ見ていた。
自分がどんな顔で彼を見ているのかは、わからなかった。
ただ言葉を待つ詠に観念したようにゆっくりと息を吐いた響は、詠が大好きなあの優しい顔で笑った。
「ただ、夏を待ってただけ」
ぶわっと涙が溢れて、それを見られないように俯いてさっと拭った。
「子どもは?」
「嘘だよ」
「じゃあ、鈴夏ちゃんとの結婚は?」
「それも嘘」
「……病気だって、本当?」
「それは本当」
「だったらこんなところにいないで……病院にいないとダメじゃん」
「もう退院してきた」
響はあっさりと言う。
7年ほど前の、電話口での出来事。
響はきっともう、長く生きていられないのだと思った。