今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った

あの頃の夏を全部、取り戻そう

「大丈夫。私、ちゃんと帰るよ。絶対。約束する」

 一歩だって引くつもりはなくて、詠は矢継ぎ早に言う。
 詠の言葉を聞いて、響は小さく笑った。それが純粋な笑顔なのか呆れているのかはわからない。

「じゃあ、あの頃の夏を全部しよう」

 響がそう言ったことで感じたのは、安心。響と一緒に過ごす時間を作れたことに対する安心感。

 緩んだ詠の手を解いた響は、手を握ったまま振り向いた。

「詠」

 響が名前を呼んでくれる。
 ただそれだけで嬉しくて内側から溢れてくるこの愛しい気持ちはきっと、どんな言葉でも、態度でも表現できない。

「ありがとう」
「……意味わかんない」

 可愛げもなく呟く詠に、響は笑いを漏らす。

 言葉の意味なんて、痛いほどよくわかっている。
 全部だ。この状況に至るまでの全てと、これから先に起こる事の全て。

 今までたくさんのものを響にもらった。だから苦しくても東京で生活が出来て、その生活も最低ほど悪くないと思わせてくれた。

 今までもらった分には到底足りなくても、響には明るい未来を見てほしい。

 これから必ず来る別れの後は、身を引き裂くような苦しみでもいい。
 思考も呼吸も鼓動さえ止まってほしいとすがりつく程の絶望に付きまとわれてもいい。

 ただこの夏を、一日を、響と過ごせるなら。
 これから先の人生は、もう何もいらない。

 この気持ちをきっと、決心というのだ。
 全てが心の内側で決まり、定まって、動く予感がしない。そんな感覚。

「はやく行こう!」

 詠は心からの笑顔で言うと、しゃがんで散らばったバッグの中身を拾った。

「夏はあっという間に終わるんだから。響も知ってるでしょ?」
「うん。そうだね」

 響も詠と同じようにしゃがみ込んでバッグの中身を拾う。
 それから詠は、雑に投げ捨てられて傷だらけになったヒールを片方履いた。

「気を付けて」

 そう言ってなんの気もない様子で手を差し出す響に、胸がトクンと高鳴る。
 あの頃よりももっと、鮮やかに。

「詠、普通に転がり落ちていきそうだから」

 詠は高鳴る胸を抑えつけて、何の遠慮もなく響の手をしっかりと握った。

「道連れだから」
「一人で落ちてよ」

 響の手を握ってバランスを取りながら、もう片方のヒールに足を通す。

 それから二人は石段を上がって社殿に向かって手を合わせ、目を閉じた。
 きっと、神様なんていない。もしいるなら、響をこんなに早く迎えに来ようなんて考えるはずがない。

 でも、願わずにはいられなくて。
 響を救ってくださいと、心の底から願った。

 それから石段を降りて鳥居をくぐり、左に曲がって響の家に向かった。
 セミとカエルの鳴き声が隙間を埋め尽くす。それが懐かしくて思わず笑顔になる。この音を、暑さを感じていると、しみじみといい子ども時代を過ごしたという思いが身に染みる。

 カラカラと懐かしい音をならす戸を開けて、響は声を張る。

「ただいま」

 途端に、家の中からバタバタと音がする。
 響が靴を脱いでいる間、廊下の向こうから目を見開いた響の祖母が歩いてきた。

 響の祖母は詠を見ると、目をまんまるに見開いた。

「……詠ちゃんね?」
「お久しぶりです。響のおばあちゃん」

 裸足で玄関を降りた響の祖母は、詠の頬を包むように手をやって優しく撫でた。

「もう会う事はないって思ってたんよ。また、綺麗になった」
「ぼろぼろだよ。だって裸足で走ってきたんだもん」
「なんもわからん。昔からずっと、詠ちゃんは綺麗よ」

 そういうと響の祖母は薄っすらと浮かんだ涙を指先で拭った。

「ほら上がっておいで」
「お邪魔します」

 詠は響の差し出したタオルで砂まみれの足を拭いてから家の中に入った。

 日の光を集めた温かい廊下。
 真夏の最奥は今日も温かい木漏れ日が揺れている。
 この場所が昔から、大好きだった。

 客間の横を通りすぎて、響の両親に線香を上げる。
 これが最後の線香になるんだろう。胸の痛みを覆うように目を閉じた。そして響の両親に心の内で告げる。

 ――まだ響と一緒にいたいです。

 詠が目を開けると響はすでに目を開けていて、いつものように「ありがとう」と言った。

 客間に移動して眺める。
 この場所は、時が止まっているみたいに何一つ変わらない。

 それから響の祖母が作った天ぷらとそうめんを、向かい合って客間で食べた。

「やっぱり美味しいね。響のおばあちゃんの天ぷらは世界一だよ」

 いつもは旅館で昼ご飯を食べてから響の家でも食べていたが、今日は空腹の状態でいるからか、それとも久しぶりだからか、本当に美味しく感じて。
 いつも通り詠は、一人分をぺろりと食べきった。

 詠と響は並んで食器を洗う。
 小さなシンクでは、大人が二人で並んで洗うとギューギュー詰めで。

「あ、もう水!」

 水がはねて、シンクから少しはみ出す。

「もっとあっち行ってよ」
「俺も詠と全く同じこと思ってる」

 二人で喧嘩をしながら、それでもやっぱり、楽しかった。

「あそこで飲みたい」
「はいはい」

 片付けを終えると、温かい縁側で二人で汗をかいたグラスで冷たい麦茶を飲む。
 「二週間はここにおるんね?」と問いかける響の祖母に、詠は今日の夜にはここを出る事を伝えた。

 木漏れ日を足に移しながら、ゆっくりと麦茶を飲む。
 風鈴の音が心地いい。うだる暑さを冷たい麦茶が緩和する。

「詠ちゃん。気を付けて帰るんよ。またいつでも遊びにおいでね。お仕事、頑張って」
「ありがとう。響のおばあちゃん」

 先に玄関を出て振り返った詠の隣を、響が「いってきます」と言って横切って外に出る。
 響の家で響を見るのは、これが最後になるのだろう。

 だから詠は響の家の出来事を、今までと、今日の分を心の中に刻み付けた。

 鳥居を背に、二人で畦道を歩く。何度もこの場所を二人で並んで歩いた。

 バス停を通り過ぎて、港の方へ。遠くから旅館の前に立っている祖父母を見て、あらかじめ連絡しておいた到着予定時間からずいぶん過ぎている事を思い出した。
 祖父母は詠の隣にいる響の姿を見て目を見開くと、嬉しそうに笑っていた。祖父母に謝ってから、響と二人で駐車場に移動した。

「紹介します。私の愛車です」
「凄い車」

 響は光を反射する詠の車を眩しそうに目を細めてみていた。
 詠は運転する為だけに履いてきたスニーカーに履き替えて、地面を踏み鳴らした。

「やっぱスニーカーだね。ヒールはダメだ」
「じゃあなんでそんなの履いてきたの?」
「ちょっとカッコつけたかったの」
「……何のために?」
「だーって」

 詠はふてくされた調子でそういって歩き出した。

「くやしいじゃん。私は響と一緒にいられるって思ってたのに、鈴夏ちゃんと二人で逃避行とかさ」
「……逃避行はしてないけど」
「見返してやるって思ったもん。私を捨てた事」
「……言い方」

 響はそれについてはぐうの音も出ないのか、何かを言いたそうに黙っていた。
 しかしそこには響のたくさんの思いがあるという事が分かっていたから、詠は響を笑顔で茶化し続けた。

 それから二人は駄菓子屋で駄菓子を買って、凍ったゼリーを食べながら海に向かった。

 砂浜で駄菓子を食べてしばらくゆっくりと海を眺めて、それからぬるい海水に足を浸す。

「本当に詐欺だよね。ここの海、冷たそうって思わせといて全然冷たくないんだもん」
「詠、毎年文句言ってたね」

 今年もやはり海が冷たくない話を二人でする。
 動いていると少しは冷たくて、詠は足で水をきった。

「あれもしとこうよ!」

 フェンスや電柱に絡む朝顔が見える自動販売機を指さした詠は、海から上がって砂浜を歩いた。

 クリーム色の細かい砂が詠の足の水分を吸収した後で、砂を払って靴下とスニーカーを履く。それから海よりも小高い場所にある自動販売機に向かって、小銭を入れて麦茶を買った。

 二人でたった今上がったばかりの海を眺めた。

 詠は響に沢山の質問をした。会っていない数年に何をしていたのか。
 無意識に、いやきっと意図的に女性の影を探している。
 結局、明確な影は浮かび上がっては来なかった。

 彼氏のスマホを盗み見る女の気持ちが、今ならよくわかる。
 ただ、どうして傷つくと分かっている事をわざわざ知りたくなるのかは、わからない。
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