今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
鬼ごっこ
「誰もいないね。いい場所なのに」
「いつも誰もいないよ。大人はこの長い階段を上がりたがらないし、子どもは遊具がある小学校の校庭の方がいいって言ってる」
響は木造の古くて小さな建物の戸を開けながら、平坦な口調で言う。
響が開けた戸の中は物置小屋で、掃除道具が乱雑に置かれていた。蜘蛛の巣がいくつもあり、手入れがされていない事は一目でわかる有様だ。
二人は落ち葉を掃き、古びた賽銭箱についた汚れを拭き取り、大きな岩くり抜いた様な手水鉢の底のぬめりを取った。
掃除をしながら自分達の事を話した。もちろん詠は自分が芸能人である事や、母親が作家をしている事、父親がいない事も、世間一般の〝普通〟以外の事実は全て隠して。
響の家はこの辺りで、神社へ来る前に見かけたバス停の向こう側にある小学校の五年生らしい。
「もう、飽きちゃった」
詠はとうとう石段に座り込んだ。かれこれ二時間は掃除をしている。その間、響は文句ひとつ言う事もなくどこか嬉しそうに掃除をしていた。二時間、ずっと。
「何でそんなに楽しそうなの?」
「楽しそう?」
響はきょとんとした顔で掃く手を止めて、石段に座り込む詠を見上げた。
「俺が? そんな顔してた?」
「してたよ。なんで? この後なにかご褒美があるとか?」
「何もないよ。どうせやらなきゃいけないなら、楽しくやろうと思ってたくらいで。……それが顔に出てたのかも」
そう言うと響は眉間にしわを寄せて再び地面を掃き始めた。
「顔怖いよ」
「詠が余計な事言うから」
響はほうきの棒を自分の肩に預けて、両手の人差し指を折りたたみ、第二関節で自分の眉間をぐりぐりと押してパッと顔を上げた。
「ダメだ。わからなくなった……」
絶望したような、疲れたような。そんな表情で真剣に悩んでいる様子の響を見て、詠はゲラゲラと腹を抱えて笑った。
いつも誰かの目があった。〝咲村詠〟という一人の役者として、芸能人として評価をされる。それは当たり前の事だと思っていた。いい子でいなければいけないと思っていた。印象が直接かかわる仕事を自分で選択した。
他の誰でもない、母に認めてほしかったから。
母親との距離がこれ以上開かないようにと常に考えて行動していた。それは今でも変わらない。変わらないのに、こんな風に誰かと冗談を言い合うこの空間が、堪らなく心地いい。
響は〝咲村詠〟を知らない。
この空間では、世間の評価も母の顔色も、何も気にしなくていい。
世界が広がった様な、小さな希望を拾った様な感覚。
何かが大きく変わる予感。
いや、もう変わっているのかもしれない。
「よし、掃除終わり」
石段の最後の一段まで掃き終わって神社をぐるりと見まわす響をよそに、詠は勢いよく立ちあがり、響が石段を上がってくるのを待っていた。
「疲れたね」
「詠ほとんど何もやってないけどね」
掃除道具を戻した後、詠と響は二人並んで社殿に向かって手を合わせた。響が目を閉じている事を確認した詠は、同じように目を閉じる。
神社に来る人達は、こうやって手を合わせて何をお願いしているんだろう。そう考えて詠は隣にいる響を盗み見たが、彼はまだ目を閉じていた。詠もそれに習って再び目を閉じる。
お母さんと仲良くできますように。それから、芸能人だって事が響にバレませんように。
心の内でさっさとそう告げて、目を開けると響は既に目を開けていた。詠と目が合った響は、石段に向かって歩いて行く。詠もそれに続いた。
「響はよく、ここに来るの?」
「うん。結構来るよ。学校からの帰り道だし、誰もいないから静かでいいし」
静かなこの場所に慣れている人間は、東京の喧騒をどう思うのだろう。詠はまた響を盗み見た。穏やかな彼が大都会に紛れている様子は想像できそうにない。
「もう帰る?」
「帰ろうかなって思ってたけど、なんで? 遊ぶ?」
当たり前のように問いかける響に、詠は思わず足を止めた。
「……いいの?」
「遊ぶのにいいとかなくない? 東京の人って、みんなそんな感じなの? 変なの」
呆れたような口調で独り言の様にそう言った響は、立ち止まった。それから返事を聞くより前に詠の肩に触れると、石段を駆け下りた。
「じゃあ鬼ごっこ! 詠が鬼!!」
「……ちょっと!」
詠が状況を整理してやっと口を開く頃には、響はもう石段を降り切っていて、鳥居の手前で右に曲がった。
詠も急いで石段を降り切ってそれに続いたが、右側の道は緩やかにカーブしていて、響の姿はもう見えない。なるべくペースを落とさずに走ったつもりだったが、一向に響の姿は見えてこない。
しばらく走ってたどり着いたのは、社殿だった。響は賽銭箱の前に座り込んでいる。鳥居から社殿へ続く道は正面の長い石段ばかりだと思っていた詠は、息を乱しながら今通ってきたスロープを振り返る。それから視線を戻すと、響はすでに立ち上がっていた。
「遅い」
「疲れた!」
投げやりにそう言う詠は、手を膝にのせて前かがみになり呼吸を整えた。
「体力なさすぎ」
そう言ってなんの警戒もなく近づいてくる響の肩に、手を弾ませるようにして触れた。
「タッチ。はい次、響が鬼ね」
そう言いながら社殿から離れて石段を駆け下りた。
「は? ズルだろ、それ!」
「ズルじゃないもーん」
なかなか憎たらしいと自分でも思う声を発しながら石段を駆け下りていると、すぐ後ろから響の足音がする。詠が石段の最後の段を踏みつけて数秒後、詠の肩を響の手が掴んだ。
「タッチ。はい俺の勝ち!」
先ほどまでの上機嫌を全て引っ込めて詠は響を見た。
「ちょっとは女の子に手加減してやろうとか思わないの?」
「勝負に手加減とかないから」
生来負けず嫌いの詠は、響のその一言で火が付いた。「絶対勝つから!」と響に宣戦布告をして、何度も響と鬼ごっこをしたが、結局昼ごはんの時間が近付いてきても、一度も響に追いついて触れる事はできなかった。
「……悔しい」
「あー楽しかった」
悔しいと声色に書いてある様子で言う詠をよそに、響は相変わらず平坦な口調で言って、軽い足取りで石段を降りた。
「ねー響。私、昼ご飯食べてまた続きしたい」
「じゃあ、ウチでお昼ご飯食べる?」
「……いいの?」
「いいよ、多分。ばーちゃん友達連れてくると喜ぶし」
〝友達〟という言葉が少しくすぐったい。ここに来てすぐは、騒がしいから友達なんていらないと思っていたくせに。
石段を降り切った後、二人は鳥居を抜けて左に曲がる。境内と道を分ける竹の柵が途切れて、草が覆い茂っていた。
沈黙、それから感覚と聴覚を隙間なく埋め尽くす、セミとカエルの大合唱。
思い返してみるとまじまじと観察したことのないバッタが、足元で元気に跳ねている。ここは本当にあの喧騒と同じ国なのだろうか。そんなことを考えて汗をぬぐいながら、響の少し後ろを歩いた。
響の家は神社から五分程歩いた場所にあった。緩やかなスロープを抜けると現れた大きな家は少し古くて、庭はボール遊びができるほど広い。
「ただいまー」
響が木の格子にすりガラスがはめ込まれている引き戸をスライドさせると、ガラガラという音がした。それは低い所と高い所で同時になっていて、細かい音が詰め込まれて大きくなっている様な、聞きなれない心地のいい音。
二人は冷たい色をしたタイルを踏みつけた。
「響ちゃん、おかえり。……あらあら、見ない子やね。響ちゃんのお友達ね」
玄関にやってきたのは、響の祖母。詠は自分の祖母の様にきびきびとした印象はないが、代わりにどこまでも優しく暖かな雰囲気のある人だと思った。
穏やかに笑う目元に浮かんだしわが、そんな雰囲気をさらに持たせているのかもしれない。
「いつも誰もいないよ。大人はこの長い階段を上がりたがらないし、子どもは遊具がある小学校の校庭の方がいいって言ってる」
響は木造の古くて小さな建物の戸を開けながら、平坦な口調で言う。
響が開けた戸の中は物置小屋で、掃除道具が乱雑に置かれていた。蜘蛛の巣がいくつもあり、手入れがされていない事は一目でわかる有様だ。
二人は落ち葉を掃き、古びた賽銭箱についた汚れを拭き取り、大きな岩くり抜いた様な手水鉢の底のぬめりを取った。
掃除をしながら自分達の事を話した。もちろん詠は自分が芸能人である事や、母親が作家をしている事、父親がいない事も、世間一般の〝普通〟以外の事実は全て隠して。
響の家はこの辺りで、神社へ来る前に見かけたバス停の向こう側にある小学校の五年生らしい。
「もう、飽きちゃった」
詠はとうとう石段に座り込んだ。かれこれ二時間は掃除をしている。その間、響は文句ひとつ言う事もなくどこか嬉しそうに掃除をしていた。二時間、ずっと。
「何でそんなに楽しそうなの?」
「楽しそう?」
響はきょとんとした顔で掃く手を止めて、石段に座り込む詠を見上げた。
「俺が? そんな顔してた?」
「してたよ。なんで? この後なにかご褒美があるとか?」
「何もないよ。どうせやらなきゃいけないなら、楽しくやろうと思ってたくらいで。……それが顔に出てたのかも」
そう言うと響は眉間にしわを寄せて再び地面を掃き始めた。
「顔怖いよ」
「詠が余計な事言うから」
響はほうきの棒を自分の肩に預けて、両手の人差し指を折りたたみ、第二関節で自分の眉間をぐりぐりと押してパッと顔を上げた。
「ダメだ。わからなくなった……」
絶望したような、疲れたような。そんな表情で真剣に悩んでいる様子の響を見て、詠はゲラゲラと腹を抱えて笑った。
いつも誰かの目があった。〝咲村詠〟という一人の役者として、芸能人として評価をされる。それは当たり前の事だと思っていた。いい子でいなければいけないと思っていた。印象が直接かかわる仕事を自分で選択した。
他の誰でもない、母に認めてほしかったから。
母親との距離がこれ以上開かないようにと常に考えて行動していた。それは今でも変わらない。変わらないのに、こんな風に誰かと冗談を言い合うこの空間が、堪らなく心地いい。
響は〝咲村詠〟を知らない。
この空間では、世間の評価も母の顔色も、何も気にしなくていい。
世界が広がった様な、小さな希望を拾った様な感覚。
何かが大きく変わる予感。
いや、もう変わっているのかもしれない。
「よし、掃除終わり」
石段の最後の一段まで掃き終わって神社をぐるりと見まわす響をよそに、詠は勢いよく立ちあがり、響が石段を上がってくるのを待っていた。
「疲れたね」
「詠ほとんど何もやってないけどね」
掃除道具を戻した後、詠と響は二人並んで社殿に向かって手を合わせた。響が目を閉じている事を確認した詠は、同じように目を閉じる。
神社に来る人達は、こうやって手を合わせて何をお願いしているんだろう。そう考えて詠は隣にいる響を盗み見たが、彼はまだ目を閉じていた。詠もそれに習って再び目を閉じる。
お母さんと仲良くできますように。それから、芸能人だって事が響にバレませんように。
心の内でさっさとそう告げて、目を開けると響は既に目を開けていた。詠と目が合った響は、石段に向かって歩いて行く。詠もそれに続いた。
「響はよく、ここに来るの?」
「うん。結構来るよ。学校からの帰り道だし、誰もいないから静かでいいし」
静かなこの場所に慣れている人間は、東京の喧騒をどう思うのだろう。詠はまた響を盗み見た。穏やかな彼が大都会に紛れている様子は想像できそうにない。
「もう帰る?」
「帰ろうかなって思ってたけど、なんで? 遊ぶ?」
当たり前のように問いかける響に、詠は思わず足を止めた。
「……いいの?」
「遊ぶのにいいとかなくない? 東京の人って、みんなそんな感じなの? 変なの」
呆れたような口調で独り言の様にそう言った響は、立ち止まった。それから返事を聞くより前に詠の肩に触れると、石段を駆け下りた。
「じゃあ鬼ごっこ! 詠が鬼!!」
「……ちょっと!」
詠が状況を整理してやっと口を開く頃には、響はもう石段を降り切っていて、鳥居の手前で右に曲がった。
詠も急いで石段を降り切ってそれに続いたが、右側の道は緩やかにカーブしていて、響の姿はもう見えない。なるべくペースを落とさずに走ったつもりだったが、一向に響の姿は見えてこない。
しばらく走ってたどり着いたのは、社殿だった。響は賽銭箱の前に座り込んでいる。鳥居から社殿へ続く道は正面の長い石段ばかりだと思っていた詠は、息を乱しながら今通ってきたスロープを振り返る。それから視線を戻すと、響はすでに立ち上がっていた。
「遅い」
「疲れた!」
投げやりにそう言う詠は、手を膝にのせて前かがみになり呼吸を整えた。
「体力なさすぎ」
そう言ってなんの警戒もなく近づいてくる響の肩に、手を弾ませるようにして触れた。
「タッチ。はい次、響が鬼ね」
そう言いながら社殿から離れて石段を駆け下りた。
「は? ズルだろ、それ!」
「ズルじゃないもーん」
なかなか憎たらしいと自分でも思う声を発しながら石段を駆け下りていると、すぐ後ろから響の足音がする。詠が石段の最後の段を踏みつけて数秒後、詠の肩を響の手が掴んだ。
「タッチ。はい俺の勝ち!」
先ほどまでの上機嫌を全て引っ込めて詠は響を見た。
「ちょっとは女の子に手加減してやろうとか思わないの?」
「勝負に手加減とかないから」
生来負けず嫌いの詠は、響のその一言で火が付いた。「絶対勝つから!」と響に宣戦布告をして、何度も響と鬼ごっこをしたが、結局昼ごはんの時間が近付いてきても、一度も響に追いついて触れる事はできなかった。
「……悔しい」
「あー楽しかった」
悔しいと声色に書いてある様子で言う詠をよそに、響は相変わらず平坦な口調で言って、軽い足取りで石段を降りた。
「ねー響。私、昼ご飯食べてまた続きしたい」
「じゃあ、ウチでお昼ご飯食べる?」
「……いいの?」
「いいよ、多分。ばーちゃん友達連れてくると喜ぶし」
〝友達〟という言葉が少しくすぐったい。ここに来てすぐは、騒がしいから友達なんていらないと思っていたくせに。
石段を降り切った後、二人は鳥居を抜けて左に曲がる。境内と道を分ける竹の柵が途切れて、草が覆い茂っていた。
沈黙、それから感覚と聴覚を隙間なく埋め尽くす、セミとカエルの大合唱。
思い返してみるとまじまじと観察したことのないバッタが、足元で元気に跳ねている。ここは本当にあの喧騒と同じ国なのだろうか。そんなことを考えて汗をぬぐいながら、響の少し後ろを歩いた。
響の家は神社から五分程歩いた場所にあった。緩やかなスロープを抜けると現れた大きな家は少し古くて、庭はボール遊びができるほど広い。
「ただいまー」
響が木の格子にすりガラスがはめ込まれている引き戸をスライドさせると、ガラガラという音がした。それは低い所と高い所で同時になっていて、細かい音が詰め込まれて大きくなっている様な、聞きなれない心地のいい音。
二人は冷たい色をしたタイルを踏みつけた。
「響ちゃん、おかえり。……あらあら、見ない子やね。響ちゃんのお友達ね」
玄関にやってきたのは、響の祖母。詠は自分の祖母の様にきびきびとした印象はないが、代わりにどこまでも優しく暖かな雰囲気のある人だと思った。
穏やかに笑う目元に浮かんだしわが、そんな雰囲気をさらに持たせているのかもしれない。