今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
随章

あの夏の真ん中で死にたかった

 石造りの鳥居の前で立ち止まり、息を整える。
 それさえも懐かしい。

 詠は石段を一歩一歩上がった。

「響」

 〝響〟
 その言葉で、現実から一気に引きはがされてどこかに引っ張られる。
 それは昔、この場所に来て感じていた日常の外側に入り込んだ感覚に似ていて、でも明確に何か違う。

「ただいま」

 響との最後の約束。

 〝じゃあ幸せになったら、会いに来て〟
 〝俺がいなくても今幸せだなって思えるようになったら、俺に会いに来て〟

 響との待ち合わせ。
 それから、あの夏の忘れ物を取りに来た。

 響がいつも座っていた中間地点を通り越して、一番上まで上がった。
 社殿の前を通り過ぎ、相変わらず掃除道具が散乱している物置小屋の中から響が家から持ってきたスコップを手に取った。
 ずいぶんと錆びていて、時の流れを感じる。
 きっと響が最後に使った時からずっと、この物置小屋の中で眠っていたのだろう。

 最後の夏。詠はタイムカプセルを埋めたことをすっかり忘れていた。
 響は覚えていたのだろうか。同じように忘れていたのかもしれないし、もしかすると覚えていたのかもしれない。

 中間地点の石灯篭と木の横。
 以前掘り返してタイムカプセルを埋めたはずの場所は周りと変わらずに草が生えていて、外から見ると全くわからない。

 スコップを土に刺すと軽い音がする。砂を抉って山を作る。後はタイムカプセルが見えるまでそれを繰り返すだけ。

 五分も掘れば、あの日に埋めたお菓子の缶が顔を出した。
 劣化して錆びている群青色の缶を穴の中から取り出す。木漏れ日が群青色の上を動いた。

 詠は服が汚れることなんて気にもしないで、土の上に座り込む。そして、膝の上に乗せた群青色の缶に付着した砂や泥を、優しく撫でるように払った。

「懐かしいね、響」

 それから詠は、タイムカプセルのふたを開けた。

 まず見えたのは、高校三年生の自分が入れた封筒。その下に重なるのは、響が入れた封筒。
 封筒は汚れたように劣化しているが、問題なく見る事が出来そうだった。

 どんなことを書いたんだっけ。詠は自分の手紙を開ける。

 そこには当時、この田舎に単身で来ることが怖い事。俳優として仕事を続けるべきかどうか。必死に戦った悩みと、今の自分が何をしているのかという問いかけ、そして最後に今の自分がどれだけ響の事が好きなのか。という事が書いてあった。
 そして文字を中央に寄せて書く書き方も、青と赤のボールペンで動物やら花やら適当にイラストを散りばめている所も、感性が若い。

 そんな事を思いながら、詠は思わず笑みを浮かべた。
 
 この手紙を書いた時点でまだ気持ちが定まっていなかったことが信じられないくらい。
 今他人事としてこの手紙を見れば、もうこの田舎に来たい気持ちはほとんど定まっているように思えた。

 それを当時の自分は本当にもがくように悩んでいたのだという事を思い出す。
 そして、大人になったのだなと思った。

 響の封筒は詠の物と同じように古びているが、詠の封筒の下に重なっていたからか、詠の封筒よりは劣化していない。
 
「どうしようか……」

 しかし、響は最後の夏。〝待っている〟と言った。

「響、開けるからね」

 詠は一言断りを入れてから、響の封筒を手に取った。
 詠の封筒よりもずっと分厚くて重い。

 紙だけじゃない。
 何が入っているんだろう。

 そう思って封筒を開けると、一枚の手紙。
 それを引き抜くと現れたのは、裏返された写真。

 心臓がねじれる音。
 これは嫌な予感か
 それとも胸が鳴る期待か

 何かを忘れている予感。
 新しい何かを知る期待。

 ぐちゃぐちゃに混ざって、もう自分の感情がどこにあるのか、わからない。

 写真を右手の親指の腹と人差し指の第一間接で挟むようにして掴んだ。
 写真を合わせて挟んだはずの指が、少しずれる。

 写真が一枚ではない事に気が付いて、ほんの少し力を込めて封筒から取り出す。
 それから、表を向けた。

 小学六年生。
 夏祭り前に響と二人で撮った、古ぼけた写真。
 まだ活気を残していた頃の商店街や営業していた咲村旅館を背景に撮られた四枚の写真。

 いつもいつも、響に会えた二週間だけに夢中になっていた。

 写真を撮って肝心のその写真をもらっていないことさえ、忘れていた。
 きっと、祖父母も写真を現像してから時間が過ぎて、渡し忘れてしまったのだろう。

 あの夏を残した四枚の写真。
 今とはなにもかもが違う景色が写っている。
 何も知らない二人が、笑っている。

 震える喉元でゆっくりと息を吐いから、もしかすると今まで呼吸を忘れていたのかもしれないと思った。

 今となっては残酷な何かを、鮮明に思い出そうと心の内側でもがいている。それがタイムカプセルの中に入っていたのか、自分の内側で出るのを待っていたのかわからない。

 意識の内側で巻き起こる嵐のような感情を、その有様を、他人事のように一線を引いたどこかから見ている気がする。

 高校三年生の響から、大人になった響への言葉。
 詠は震える手で響が書いた手紙を開く。

 イラストに埋もれて、たった一行。

 〝詠と一緒にいたかった。〟

 今、すべてを思い出す。
 底の見える美しい川の水面を魚が叩いた飛沫。川水の冷たさ。海水の生ぬるさ。人間同士が作る沈黙の隙間を埋めるカエルとセミの鳴き声と、涼しい風鈴の音に、凪打つ草の囁き。

 夏という季節にだけ縛られた思い出。
 この場所で起きた出来事の全て。
 ひと夏を幾重にも重ねて彩った日々の事。

 あの夏を全部思い出したと思っていた。
 それなのに、忘れていた。
 美談になんかしないと思った、最後の夏の事。
 この思い出がいつか美談になるくらいなら、呪いのような苦しみでいいと思ったこと。
 刻み付けるものは、永遠に癒えない傷でいいと思ったこと。

 もう今となれば疼く胸の痛みだけが、あの夏の証明。

 いつだって夏以外、いらなかったのに。

 私は誰かの子で。
 誰かの妻で。
 誰かの母で。
 その役割を、生涯をかけて全うする。

 響のくれた前向きな人生の中で生きていく。
 自分の人生に責任をもって、これからもその役割が許される限り、生きていく。

 これ以上の幸せはいらない。
 私は充分、幸せ。

 心の底からそう思っているけれど、一つだけ、弱音を吐くことが許されるなら。

 やっぱり私は、あの夏の真ん中で死にたかった。

 そう思っている私を、誰か優しく叱ってほしい。
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