今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
閑話

とりとめのない話

 都内のとあるマンションの一室。
 詠はこの家を家ではなく店の様だと思っていた。テレビCMで流れる小綺麗なモデルルームではない。店という所が重要。

生活感は全くなく、無駄に長い廊下を何度も曲がってリビングに続くドアを開ければ、正面はカーテンのないガラス張りの、黒やグレーで統一されたリビング。天井から終わりかけの線香花火の様な電球が横一列に並んでいる。
 詠の身長では座ることがやっとのアイランドキッチンの向かいに置いてある背の高い椅子。

「これから毎年おばあちゃんの家に行きたい」

 詠は祖母の家から帰宅して早々、厳選されたものがただそこに並んでいるだけのリビングで母にそう言った。母は何か言及することもなく、ただ「そうなの」とだけ答えて祖母の連絡先を詠に教えた。

 こんなふうに母が自分に興味のない態度を見せた時、詠はいつもざわつく不安に襲われた。
 しかし、今回に限っては全く違っていた。

 自分の都合を誰かに決められなくていい事が嬉しいと思った。嬉しいと思っているのに、母に対してそう思う自分に嫌悪している。
 いつもは聞かれてもいない事をペラペラと喋るのに、響の事に関しては何一つ喋る気にならない。
 これが、詠が田舎から帰ってきて感じた、気持ちの変化だった。

 詠が演じたドラマの役は大成功を収めた。出番の多い役ではなかった割に評判が良かったのは響のおかげだ。
 みんなのびのびとしている。それは響と過ごした最後の一週間の自分をそのまま演じればいいだけだった。

「やっぱり詠ちゃん、なんだか明るくなった」

 小梢(こずえ)は詠の演技を凄く喜んで、誰も使いこなせない広いリビングの端のテレビで録画したドラマのシーンを何度も何度も見ている。
 小梢は詠が幼い頃から仕事で忙しい母の代わりに家事をしている家政婦で、週に五日この家に来ている。彼女のおかげで部屋はいつもきれいに保たれていて、栄養バランスの取れた食事ができる。

 ドラマを見る小梢を横目に、詠はランニングウェアを着て屈伸をした。
 次に会った時は必ず、響を捕まえたかったから。

「別に何も変わらないよ」
「詠ちゃんくらいの年齢なら、もう秘密の一つくらいあるわよね」

 和枝は茶化す様な口調で言う。夏に田舎から帰ってきてから運動する習慣が付いたからか、好きな人でもできたと思っているのだろう。
 しかし詠は、それよりももっと大切なものを見つけた気分だった。

「本当に何もないけどね。じゃあ、行ってくるね」

 詠はそういって息の詰まるリビングを出た。

 もし話して聞かせたとすれば、大人は笑うのだろうか。
 たった一つの季節の、たった一週間だけ一緒にいた少年と来年また会う事だけを楽しみにしているなんて。
 最近よく大人から言われる「明るくなった」の理由の全てが、そこにあるなんて。

 詠は考えと一緒に息を吐き捨てた。
口にする気なんてない。誰にも教えたくない。自分だけの秘密にしておきたい。

 それは〝夢は人に言うと正夢にならない〟と聞いて次に素敵な夢を見た時のよう。
 あの素敵な一週間がもし全部夢でしたなんて言われてしまえば、きっと立ち直ることができない。
 誰かに言いたくなって。だけどやっぱり、言いたくない。

 長い間エレベーターで揺られた後、ゆっくりと走り出す。

 早く響に会いたい。そう思うと自然と笑顔がこぼれる程温かい気持ちになるのに、最近は連鎖したように不安を連れてくる。

 響に自分が芸能人であることを知られていないかという事だ。
 知られてしまえばきっと響も、これまでの友達と同じように一線を引いた向こう側から好奇の目で見るか、もしくは必要以上に馴れ馴れしく関わってくるに違いない。

 詠は何度も経験した人間のその感情の移り変わりが大嫌いだった。
 悲しくて、虚しくて。それなのに、同時にイライラする。




 桜は散り、連日の雨が止み、お気に入りの卓上カレンダーのバツ印があと一つで花丸印に追いつく日の夜。
 詠は家の中で唯一生活感のある自室で、先日買ったばかりの携帯電話を特に意味もなく眺めていた。

 小学六年生にもなれば、もう公共交通機関を使ってどこにでも一人で移動ができる。小梢がわざわざ仕事場までついてくるという事もなくなる。

 念願の携帯電話を購入しても、それは眠る前に卓上カレンダーにバツ印をつける事には及ばない。

 卓上カレンダーに赤いペンでバツ印を付ければ、やっと花丸印までの空白が全て埋まった。

 詠はそれから電気を消してベッドにもぐりこんだ。
 念願の携帯電話も、好きだったはずのゲームも、興味が失せてしまった。

 響に会えることが楽しみで眠れない。だけど響に会えることが楽しみだから、退屈な時間は寝ているときのように意識のない状態で、さっさと過ぎてくれればいい。
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