今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った
冷たくない海
響の祖母は今年も快く詠を家に迎え入れた。
詠がすっかり気に入った客間のすぐ横の幻想的な廊下には相変わらず木漏れ日が揺らめいていて、開け放たれてガラスを通していない太陽の光は去年よりももっと廊下を温めている。飾られた風鈴が高い音を鳴らしていた。
「詠はお昼ご飯食べてるからいらないよ」
響は確かにそう説明したはずだが、食事の準備ができたという声に二人で向かった先のダイニングテーブルには明らかに二人分の天ぷらとそうめんが置いてあった。
「作りすぎたから、二人で食べられる分だけ食べて」
結局詠は揚げたての天ぷらを半分、それにそうめんを半分。つまりちょうど一人分食べきった。
響は詠の食べっぷりを見て、昼ご飯を食べて来たというのは嘘なのではないかと本気で疑っていた。
それから二人は去年と同じように二人で食器を洗う。その様子を茶の間と台所の間でいつの間にか見ていた響の祖母は、やはり今年も嬉しそうに笑っていた。
「響ちゃんよかったね。今年も詠ちゃんと遊べて」
「うん。ちゃんと来たし」
そう言いながら響は泡だらけの食器を詠に渡した。詠はそれをお湯で丁寧に洗い流す。
「響ちゃんね、夏休みなんて退屈だって毎年言ってて。それなのに去年詠ちゃんが帰っ
てから、一度だってそう言わないんよ。凄く楽しみにしててね」
「ばーちゃん」
「カレンダーにバツ印をつけたりして」
「ばーちゃん!」
響は少し顔を赤らめて声を張った。「ごめんごめん」と申し訳なさなど微塵もない口調で言う響の祖母と、知られたくない事実を必死に隠そうとする響を見て詠は笑った。
「私は嬉しいよ。私もね、カレンダーにバツ印をつけて楽しみに待ってたんだ。一緒だね」
響は居心地が悪そうな顔で詠が追いつけないペースで皿洗いを終え、手についた泡を洗い流して台拭きを手に客間の方へと消えた。
「ほら、詠ちゃん。これこれ」
小さな声でそう言った響の祖母は、既に破かれた七月のカレンダーを詠に見せた。そこには七月一日から赤いペンでバツ印が書かれていて、夏休みが始まる日にはマル印が書かれていた。
「もう……ばーちゃん……」
響は台拭きを片手に台所に戻ってくると、絞り出すような声でそう言った。
響の祖母はまた「ごめんごめん」と言いながら、少し目を見開いて茶目っ気のある顔で詠を見てからカレンダーを片付ける。
どこまでも自由な響の祖母と、祖母に悪気がない事が理解して強気に出られず「ばーちゃん」と呼ぶしか出来ない優しい響のやり取りを見て、詠はこらえきれずに腹を抱えて笑った。
響はむすっとした顔で詠を睨んだ。
それから二人は、いつもの神社で鬼ごっこをして遊んだ。
去年とは違いかなりいい勝負をした詠が、この日のためにここ一年ランニングをして体力をつけてきた事をドヤ顔で説明すると、響は腹を抱えて笑っていた。
それからは去年同様、毎日朝から二人で遊んだ。
咲村旅館の一室でたくさんの座布団を使って遊んでみたり、カラオケをしてみたり。響の家の庭で遊ぶ日もある。
「今日はお菓子を買って海で食べよう」
響の提案で商店街から少し離れたところにぽつりとある古びた駄菓子屋に向かった。
子どもたちが貼ったのだろう。駄菓子屋の引き戸には、時代遅れのシールたちがたくさん貼られている。
苔の生えたトタン屋根から釣り下がって揺れる風鈴。いくつかの少し錆びたカプセルトイの機械と大きなゴミ箱、アイスケース、長椅子の横を通り過ぎる。
引き戸は響の家の玄関よりもスムーズに動き、カラカラと軽い音を立てて開いた。
「こんにちはー」
「こんにちは」
いつもより少し大きめの声で挨拶をする響の後ろで、詠は麦わら帽子を深く被りながら小さな声で言った。
「はい、こんにちは」
腰を曲げて座っている小さなおばあちゃんが、うちわ片手に穏やかな声でそういう。
扇風機が首を回してはいるが、その風さえぬるい。店の中はたくさんの種類のお菓子が所狭しと並んでいた。壁には厚紙にはめ込まれたスーパーボールや、袋に入った紙風船やいろいろなものが重なって並んでいる。
近くのスーパーでは見た事のないお菓子の品揃えに、詠は思わず声を上げた。
響は駄菓子屋のおばあちゃんが金額を計算している間に、外に置いてあるアイスケースに向かう。詠もついて行くと、そこには細い棒の形、それに丸い形の冷凍されたゼリー。フルーツをかたどったシャーベットたちが並んでいた。
響に続いてゼリーを数本選んで、響の後ろに並んだ。
二人は袋いっぱいのお菓子を片手に、肩口で汗を拭いながら歩いた。客が誰もいない事も、店員に気付かれなかった事も運がよかった。
会えた嬉しさですっかり忘れていた詠だったが、自分が芸能人だという事は響に気付かれてはいないらしい。
テレビっ子の詠からすると信じられないが、おそらく響はあまりテレビを見ないのだろう。
テレビ見ないの? と問いかければきっと響は答えるだろう。しかしもし、何でテレビを見ないと思ったのかと問い返されてしまえば、ごまかす作り話が出来る自信が詠にはなかった。
いつか気付いてしまうのだろうか。ずっと響が〝咲村詠〟を知らないままでいてくれたらいいのに。どうにかしてずっと隠し通すことはできないだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、それは響のいない季節に考えればいい事だ。
「暑いねー」
自分の気持ちを誤魔化して、明るい口調で切り替えるふりをする。
「暑いな」
どこまでも追いかけてくるセミの声と、かすかに聞こえる風鈴の音が二人の沈黙の隙間を埋める。
響は駄菓子の入った袋に手を突っ込んで冷凍ゼリーを取り出した。
「こんなに暑いと、せっかく凍ってるゼリーが溶ける。……もう半分くらい溶けてるし」
そう言うと響はゼリーの袋にある切れ込みの部分を歯で噛んで開けて、袋ごとゼリーを噛んだ。
「あー生き返る。……けど、すぐ溶ける」
詠も響と同じように袋の中からゼリーを取り出して、同じようにゼリーの袋を開けて口に入れた。
「美味しい、冷たい!!」
響の言う通り半分くらいは溶けていたが、凍っている部分を噛むと、シャリシャリと音が鳴る。あっという間にゼリーを食べ終わってしばらく歩いて、やっと海が見えた。
商店街から少し離れた駄菓子屋からこの海までは大した距離ではないが、こうも暑いと歩くのが億劫になる。しかし、建物が並ぶ商店街よりは風を直接感じて過ごしやすい。
小高い場所から海を見下ろしながら歩く。数組の家族が楽しそうに遊んでいた。
アスファルトを固めて作ったような、神社の石段とは違う石段を注意深く降りる詠とは対照的に、響はリズムよく下を見る事もなく降り切って砂浜に足をつけた。
「水着、持ってくればよかった」
「俺も同じこと思ってた」
二人は気持ちを共有しながら、砂浜に腰を下ろして駄菓子を食べた。
「そういえばさ、去年言ってた好きな子とはどうなったの?」
「……よく覚えてたな、そんな話。別にそういうのじゃないから、どうにもなってないよ」
「えーつまんなー」
詠は最後のお菓子を食べ終わるとゴミの入った袋の口を器用に縛って、飛ばされないように袋の上に砂をかぶせた。
「私、足だけ海に浸かってくる」
「俺も行く」
二人はサンダルを脱ぎ捨てて駆け出し、海水に足をつけた。
詠は笑顔を引っ込めて自分の足元を見た。意識を足に集中させてみるが、やはり予想していた感覚とはずいぶん違う。
「……私の言いたい事わかる?」
「めっちゃよくわかる」
二人はじっと水面を見つめた。
ぬるい。足を浸した海水は思っている何倍もぬるかった。
すっと汗が引く冷たさを期待していた詠は少しでも冷たくなるように足を動かした。詠の足の動きに合わせて、ぴちゃぴちゃと海水が飛ぶ。
「入るまではいっつも、今日は冷たいはずだって思うんだよね。でも、期待しているほど冷たくはない」
響の言葉を聞いてから詠は海水に手を付ける。足だけよりはマシだった。
詠がすっかり気に入った客間のすぐ横の幻想的な廊下には相変わらず木漏れ日が揺らめいていて、開け放たれてガラスを通していない太陽の光は去年よりももっと廊下を温めている。飾られた風鈴が高い音を鳴らしていた。
「詠はお昼ご飯食べてるからいらないよ」
響は確かにそう説明したはずだが、食事の準備ができたという声に二人で向かった先のダイニングテーブルには明らかに二人分の天ぷらとそうめんが置いてあった。
「作りすぎたから、二人で食べられる分だけ食べて」
結局詠は揚げたての天ぷらを半分、それにそうめんを半分。つまりちょうど一人分食べきった。
響は詠の食べっぷりを見て、昼ご飯を食べて来たというのは嘘なのではないかと本気で疑っていた。
それから二人は去年と同じように二人で食器を洗う。その様子を茶の間と台所の間でいつの間にか見ていた響の祖母は、やはり今年も嬉しそうに笑っていた。
「響ちゃんよかったね。今年も詠ちゃんと遊べて」
「うん。ちゃんと来たし」
そう言いながら響は泡だらけの食器を詠に渡した。詠はそれをお湯で丁寧に洗い流す。
「響ちゃんね、夏休みなんて退屈だって毎年言ってて。それなのに去年詠ちゃんが帰っ
てから、一度だってそう言わないんよ。凄く楽しみにしててね」
「ばーちゃん」
「カレンダーにバツ印をつけたりして」
「ばーちゃん!」
響は少し顔を赤らめて声を張った。「ごめんごめん」と申し訳なさなど微塵もない口調で言う響の祖母と、知られたくない事実を必死に隠そうとする響を見て詠は笑った。
「私は嬉しいよ。私もね、カレンダーにバツ印をつけて楽しみに待ってたんだ。一緒だね」
響は居心地が悪そうな顔で詠が追いつけないペースで皿洗いを終え、手についた泡を洗い流して台拭きを手に客間の方へと消えた。
「ほら、詠ちゃん。これこれ」
小さな声でそう言った響の祖母は、既に破かれた七月のカレンダーを詠に見せた。そこには七月一日から赤いペンでバツ印が書かれていて、夏休みが始まる日にはマル印が書かれていた。
「もう……ばーちゃん……」
響は台拭きを片手に台所に戻ってくると、絞り出すような声でそう言った。
響の祖母はまた「ごめんごめん」と言いながら、少し目を見開いて茶目っ気のある顔で詠を見てからカレンダーを片付ける。
どこまでも自由な響の祖母と、祖母に悪気がない事が理解して強気に出られず「ばーちゃん」と呼ぶしか出来ない優しい響のやり取りを見て、詠はこらえきれずに腹を抱えて笑った。
響はむすっとした顔で詠を睨んだ。
それから二人は、いつもの神社で鬼ごっこをして遊んだ。
去年とは違いかなりいい勝負をした詠が、この日のためにここ一年ランニングをして体力をつけてきた事をドヤ顔で説明すると、響は腹を抱えて笑っていた。
それからは去年同様、毎日朝から二人で遊んだ。
咲村旅館の一室でたくさんの座布団を使って遊んでみたり、カラオケをしてみたり。響の家の庭で遊ぶ日もある。
「今日はお菓子を買って海で食べよう」
響の提案で商店街から少し離れたところにぽつりとある古びた駄菓子屋に向かった。
子どもたちが貼ったのだろう。駄菓子屋の引き戸には、時代遅れのシールたちがたくさん貼られている。
苔の生えたトタン屋根から釣り下がって揺れる風鈴。いくつかの少し錆びたカプセルトイの機械と大きなゴミ箱、アイスケース、長椅子の横を通り過ぎる。
引き戸は響の家の玄関よりもスムーズに動き、カラカラと軽い音を立てて開いた。
「こんにちはー」
「こんにちは」
いつもより少し大きめの声で挨拶をする響の後ろで、詠は麦わら帽子を深く被りながら小さな声で言った。
「はい、こんにちは」
腰を曲げて座っている小さなおばあちゃんが、うちわ片手に穏やかな声でそういう。
扇風機が首を回してはいるが、その風さえぬるい。店の中はたくさんの種類のお菓子が所狭しと並んでいた。壁には厚紙にはめ込まれたスーパーボールや、袋に入った紙風船やいろいろなものが重なって並んでいる。
近くのスーパーでは見た事のないお菓子の品揃えに、詠は思わず声を上げた。
響は駄菓子屋のおばあちゃんが金額を計算している間に、外に置いてあるアイスケースに向かう。詠もついて行くと、そこには細い棒の形、それに丸い形の冷凍されたゼリー。フルーツをかたどったシャーベットたちが並んでいた。
響に続いてゼリーを数本選んで、響の後ろに並んだ。
二人は袋いっぱいのお菓子を片手に、肩口で汗を拭いながら歩いた。客が誰もいない事も、店員に気付かれなかった事も運がよかった。
会えた嬉しさですっかり忘れていた詠だったが、自分が芸能人だという事は響に気付かれてはいないらしい。
テレビっ子の詠からすると信じられないが、おそらく響はあまりテレビを見ないのだろう。
テレビ見ないの? と問いかければきっと響は答えるだろう。しかしもし、何でテレビを見ないと思ったのかと問い返されてしまえば、ごまかす作り話が出来る自信が詠にはなかった。
いつか気付いてしまうのだろうか。ずっと響が〝咲村詠〟を知らないままでいてくれたらいいのに。どうにかしてずっと隠し通すことはできないだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、それは響のいない季節に考えればいい事だ。
「暑いねー」
自分の気持ちを誤魔化して、明るい口調で切り替えるふりをする。
「暑いな」
どこまでも追いかけてくるセミの声と、かすかに聞こえる風鈴の音が二人の沈黙の隙間を埋める。
響は駄菓子の入った袋に手を突っ込んで冷凍ゼリーを取り出した。
「こんなに暑いと、せっかく凍ってるゼリーが溶ける。……もう半分くらい溶けてるし」
そう言うと響はゼリーの袋にある切れ込みの部分を歯で噛んで開けて、袋ごとゼリーを噛んだ。
「あー生き返る。……けど、すぐ溶ける」
詠も響と同じように袋の中からゼリーを取り出して、同じようにゼリーの袋を開けて口に入れた。
「美味しい、冷たい!!」
響の言う通り半分くらいは溶けていたが、凍っている部分を噛むと、シャリシャリと音が鳴る。あっという間にゼリーを食べ終わってしばらく歩いて、やっと海が見えた。
商店街から少し離れた駄菓子屋からこの海までは大した距離ではないが、こうも暑いと歩くのが億劫になる。しかし、建物が並ぶ商店街よりは風を直接感じて過ごしやすい。
小高い場所から海を見下ろしながら歩く。数組の家族が楽しそうに遊んでいた。
アスファルトを固めて作ったような、神社の石段とは違う石段を注意深く降りる詠とは対照的に、響はリズムよく下を見る事もなく降り切って砂浜に足をつけた。
「水着、持ってくればよかった」
「俺も同じこと思ってた」
二人は気持ちを共有しながら、砂浜に腰を下ろして駄菓子を食べた。
「そういえばさ、去年言ってた好きな子とはどうなったの?」
「……よく覚えてたな、そんな話。別にそういうのじゃないから、どうにもなってないよ」
「えーつまんなー」
詠は最後のお菓子を食べ終わるとゴミの入った袋の口を器用に縛って、飛ばされないように袋の上に砂をかぶせた。
「私、足だけ海に浸かってくる」
「俺も行く」
二人はサンダルを脱ぎ捨てて駆け出し、海水に足をつけた。
詠は笑顔を引っ込めて自分の足元を見た。意識を足に集中させてみるが、やはり予想していた感覚とはずいぶん違う。
「……私の言いたい事わかる?」
「めっちゃよくわかる」
二人はじっと水面を見つめた。
ぬるい。足を浸した海水は思っている何倍もぬるかった。
すっと汗が引く冷たさを期待していた詠は少しでも冷たくなるように足を動かした。詠の足の動きに合わせて、ぴちゃぴちゃと海水が飛ぶ。
「入るまではいっつも、今日は冷たいはずだって思うんだよね。でも、期待しているほど冷たくはない」
響の言葉を聞いてから詠は海水に手を付ける。足だけよりはマシだった。