恋の始まり、ゼロ距離。
見てはいけないものを見てしまった。
そう直感で感じた、8月31日の昼下がり。
明日は始業式なのに。
夏休み最終日に、とんでもないことになってしまいました……。
「藍原、見たな」
「あ……いえ。何も」
「見たな?」
「何も見ていませんけど」
「見たと言え。さもないと2学期の評定を下げるぞ」
「まだ始まっても無いのに!?」
文芸部に所属している高校2年の私、藍原伊緒。3年生がいない文芸部で部長をしている私は、部員を全員帰らせた後に書庫へ向かった。そこには文芸部で管理している書籍が置いてある。それが見たくて、鍵のかかっていた書庫を開けたんだ。
鍵がかかっているのだから。まさか中に人が居るかもしれないなんて思わないじゃない。
だからビックリしたんだ。
扉を開けたらそこに、国語教師の坪野孝仁先生が座り込んでいたから。
しかも、“いつもと違う”様子の坪野先生。
「しょ……書庫でタバコを吸わないで下さい。何しているのですか。学校にチクリますよ」
「電子タバコだから許せ」
「そういう問題じゃないです!!」
坪野先生は長身で長髪。目に掛かる前髪が鬱陶しい眼鏡の人。
地味で暗くて、生徒から舐められている可哀想な人……という印象だったのに。
今私の目の前に居る人は、地味で暗いには程遠い。
長髪をヘアピンで固定して、眼鏡は……どこ行った?
いつもは敬語なのに、タメ口だし。
首元までビシッと締めているネクタイも、今日はゆるゆる。シャツの第1ボタンも開けているし……本当に、誰。
「坪野先生はタバコ吸うような人じゃないです」
「そのお前らの偏見のせいで堂々と吸えないだけ」
「坪野先生は地味で暗いです」
「別に良くない? むしろギャップ萌えだろ」
とはいえ、この姿を見られたく無かったけどなぁ~……なんてわざとらしく呟き、先生は電子タバコをホルダーにしまった。
私、ここに何しに来たんだったっけ。
それすら忘れて、ただ呆然と先生の姿を眺めた。
「藍原、あんま見んな」
「見てません」
「見てんだろ」
はぁ……とわざとらしく溜息をつき、ヘアピンを外して髪をぐしゃぐしゃとした。長髪が無造作に揺れ動き、隙間から鋭い眼光が覗く。
この人、ヤバい———……。
そう思った時にはもう遅かった。
いつの間にか距離を詰められ、先生は左腕を私の腰に回した。
そして右手は私の顎に添え、そっと顔の角度を上げられる。
「藍原……明日からも部活が終わったらここに来い」
「え?」
「“俺”の姿を見たお前への罰だ」
「は? いや、先生がここに居たのは悪いでしょ……。大体……」
「うるせぇな。罰は罰だ。黙れ」
先生の顔が近付き、そのまま塞がれる唇。
ファーストキスが……なんて頭の片隅で思う余裕が私の中にあった。
その一方で、全く理解ができないこの状況。
ついばむように唇を塞ぎ、チュッと音を立てながら離れていく先生。
「藍原、甘すぎ」
それだけを呟いた先生はポケットからいつもの眼鏡を取り出して、掛けながら書庫から出て行った。
「……」
唇に残る、先生の唇の感覚。
そっと手で触れ撫でると、先程までの感触がより一層思い出される。
「何なの、一体」
状況が理解できない。
分からない、今……何があったの。
私は何のために書庫に来たのか、この時はもう完全に忘れていた。
唇を撫でながら思う。
私のファーストキスは、意味不明な教師によって一瞬で奪われてしまったな……なんて。
そんな私の平穏な高校生活は、この日を境に突如変化してしまった。