恋の始まり、ゼロ距離。
「はい、始めます」
「姿勢を正して、礼」
お願いします~と始まる、2学期1発目の古典の授業。
国語教師の坪野先生は、私たちの古典担当だ。
“あの日以来”初となる“いつも通り”の坪野先生を前に、何故か動悸がする私。
一方、今日の坪野先生はやっぱり“いつも通り”だった。
地味で暗い。
あの時の先生とは1ミリたりとも結びつかない。
そんな姿。
ピシッと背中に定規でも入っているかのように姿勢良く立つ先生。
教科書も開かずに呆然と先生を眺めては思う。
あの手に触れられて、あの唇に触れられた。
あの時の先生とは一切結びつかないのに、目の前にいる“いつもの”坪野先生に、騒がしくし続ける私の心臓……。
「えー……『君待つと 我が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く』これは、有名な歌です。万葉集に収められているのですが、この和歌を現代語訳に直せますか…………藍原さん」
「……」
「藍原さん」
眺めすぎて、もはや脳はフリーズをしていた。
ずっと一方的に見つめていた先生と目が合い、何故か心臓が飛び跳ねる。
「な……何ですか」
私のせめてもの言葉。
ずっと真顔の先生は、眼鏡の奥で鋭い眼光を覗かせて再度言葉を継いだ。
「授業聞いていますか。“僕”はあなたを指名しました」
「えっ!?」
「現代語訳に直してくださいと言ったのですが、伝わりましたかね」
「……」
どの和歌かを隣に尋ね、教えて貰う。
しかしその間に先生の限界を迎えてしまったようで、いつも通りなんだけど少し冷たい口調で「もう良いです」と吐き捨てるように言った。
「藍原さん、放課後補習させますから。必ず“僕”の元へ来て下さいよ。『さもないと2学期の評定を下げます』」
眼鏡をクイっと押し上げ、次の人を指名する先生。
次の人が当たり前のように「あなたを待って私が恋しく思っていると、私の部屋のすだれを動かして秋の風が吹いていきます」と答えると、先生は「流石ですね」と言いながら小さく手を叩き、また私の方に鋭い眼光を向けた。
ヤバい、やってしまった———……。
だけどこの前もそうだ。
そう思った時には、いつも遅かった……。