引きこもり令嬢が完全無欠の氷の王太子に愛されるただひとつの花となるまでの、その顛末

8.花と眼鏡と”大丈夫”

 おかしい。我ながらどうかしている。

 何をしても頭の中がふわふわとしている。足がずっと宙に浮いているかもしれない。何よりシルヴィオの顔が頭から離れない。

 それはもう、彼は立っているだけで絵画のようなのだから致し方ないのかもしれないけれど。自分はそんなに面食い(・・・)だったのかとリリアーナは内心凹んだ。

 そんなことばかり考えていたら、起き抜けに眼鏡を落としてしまった。
 床の上で見るも無残にレンズが粉々になっていた。これでは掛けるどころではない。

「どうしよう……」
 普段のように屋敷に引きこもっているのならまだしも、今日はシルヴィオに会う日なのだ。

「まあ死ぬわけじゃないし」

 先日は見て回り切らなかった温室の花の名前をシルヴィオが教えてくれるという。眼鏡ごとき、王太子との約束を反故にできるほどの事態だとは思えなかった。

 そうだったのだけれど。
「眼鏡はどうした?」
 そう話しかけてくる顔もほとんど判別ができない。緑の背景の中にぼんやりと銀色の光が見える。それだけだ。

「その、朝割ってしまいまして」
「なくても平気なものなのか?」

 なくて平気なら毎日掛けてはいない。せっかくの花もなんだか輪郭の曖昧な赤や黄色の水玉模様のようなものだ。それでもリリアーナは頷いた。

「大丈夫です……」
「本当か?」

 シルヴィオの手が眼前でひらひらと振られる。そして、そのまま彼はリリアーナの顔を覗き込んできた。

「ひっ」

 自分の喉が鳴ったのがわかった。

「見えていないだろう?」
 髪と同じ銀の睫毛に縁取られた青い瞳が、リリアーナを見つめている。

 未だかつてこんなにも至近距離で美形を直視したことがあっただろうか。いや、ない。というかあってはならない。だって息の仕方が分からない。まるで深い海の底にいるみたいだ。

「え、えっと、えっと」

 眼鏡がなくてよかったとこんなに思ったことはない。はっきり見えていたら確実に卒倒してしまうところだった。

 その手が今度は自分の手に伸びてくる。大きな手に包み込まれるように手を握られた。

「君が転んでは大変だ」
 幾分ひやりとした手だった。それでも導かれるように手を繋がれれば安心感がある。本当は見えていなくてずっと不安だったのだと、リリアーナは気が付いた。

「無理をして来させてしまったな。悪かった」
 いつもよりゆっくりとシルヴィオは足を進める。温室の隅に置かれたテーブルのところまで行くと、彼が椅子を引いてくれた。

「いえ……」

 やっぱり眼鏡がなくてよかった。眼鏡を掛けたままだったら、こんな風にシルヴィオと手を繋ぐことはできなかっただろう。

 きれいな花も、美しい彼自身も、淡い光の中に霞むようにしか見えていなかったけれど。
 それでも眼鏡がなくてよかったとリリアーナは思った。
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