寄り添う背中
朝焼け
***
「晴くん。サンドイッチ出来た……よ……」
いつの間にか、両腕を枕にしてスヤスヤと寝息を立てている晴くんの姿が目に入った。
あたしは手にしていたコーヒーカップを静かに置くと、そばにあった大判のストールを肩へとかけてあげる。
いつの時も変わらない寝顔を見て、思わず微笑んでしまう。そして、これまでの晴くんとの日々を思い出す。
────
晴くんが二十ニ歳、あたしが二十歳。
友達に誘われて初めて入ったBAR【encounter】に、晴くんはいた。
金髪に崩した首元のネクタイ、なんだかイヤイヤ振っているようなシェイカー。第一印象は最悪だった。
『あの人さぁ、顔はいいけどなんか雰囲気ヤンキーじゃない? 誘っておいて悪いけど、今日は帰る?』
一緒に店を訪れた友人が、大きめの声でそんな悪態をつくから、あたしは焦った。だけど、きっと彼には聞こえていなかったんだろう。
こちらを見ることもなく、シェイカーからお酒をグラスへと注いで、カウンターのお客さんへと差し出していた。
隙のない一連の動きが、流れるようでとても綺麗。思わず見入ってしまった。
『うん、今日も美味しいよ』
『ありがとうございます』
差し出したお客に褒められた瞬間、無表情でシェイカーを振っていたさっきとは別人のような、優しい笑顔を見せた彼に、見惚れてしまう。目が、逸らせなくなった。
ようやく、立ち尽くしていたあたしに気が付いた彼と、目が合う。
『いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ』
あたしへと向けられる笑顔はなく、接客の基本通りに言葉を並べる彼に少しがっかりした。
だけど、頼んだお酒はどれも美味しくて、乗り気じゃなかった友人も結局は最後まで楽しんでいた。
帰り際、どうしてもまたあの笑顔が見たくて、思い切ってカウンターの前まで駆け寄った。
『とっても、美味しかったです。ご馳走様でした』
そう告げると、彼はあたしにも笑顔をこぼしてくれた。
それがとても嬉しくて、それからあたしはencounterの常連になった。
これが、あたしと晴くんとの出逢い。
彼の名前は櫻井晴良。何度か通ううちに、年も近いことがわかって、話をするようになった。不真面目な見た目とは違って、話をするととても穏やかで、仕事に対する姿勢は真面目だった。
親に大学も行かずに好きなことをして何を考えているんだと、勘当されて家を出てきたこと。何のためにこの仕事を続けているんだろうと、たまに悩んでしまうこと。会うたびに少しずつ、話をしてくれた。
ここまで深い話ができたのは、こういう職業だから周りと時間が合わなくて、今までちゃんと悩みを打ち明けられる人がいなかったからと言っていたことがある。お酒も入っていたから、つい、あたしに話してしまっただけなんだと思った。
寂しそうに笑う彼を、あたしはとても愛おしく思えて、悲しくならないようにと抱きしめた。
あたしが彼のことを「晴くん」と呼ぶまで、時間はかからなかった。
それからすぐ、晴くんと結ばれたあたしは、子供を授かった。
だけど、夜型の晴くんとはやっぱり生活のリズムが合わなくて、子供のことは全部あたしがやるしかなかった。
大好きな料理も億劫になってしまうくらいに、毎日が窮屈に感じていた。子供はかわいい。晴くんのことだって嫌いじゃない。だけど、些細なことの積み重ねで、あたしの生活が崩れていくことに、苛々することが多くなった。
やっとの思いで子供を寝かしつけ、仕事へ向かう晴くんを見送る。
『佐江子、カクテルの新作出来たんだよ。今度佐江子も飲んでみてよ』
『え……、お酒はちょっと』
今は飲む気分でも、飲める状態でもない。この前も、夜中に子供が咳き込んで苦しそうだった時、晴くんは全然頼りにならなかった。だから、あたしが車を運転して病院へ連れて行った。仕事だから仕方ないと言われればそれまでだけど。
『絶対美味しいからさ』
結果、大事に至らなく無事に帰ってきたら、そんなことがあったことさえも仕事をしていて、晴くんは覚えていなかった。
きっと心配してくれていたんだと思う。晴くんは優しいから、悪気なんて微塵もなかったんだってわかってた。分かってたけど。
『大変だったね』と笑う晴くんのことを、あたしが許せなかった。
湧き上がってきてしまった感情が溢れてしまうのを止められなくて、言葉にしていた。
『晴くんはいいよね。自分の好きなことして毎日楽しそうで』
刺のある言葉が、晴くんの顔を歪ませた。はっとしてから、あたしはすぐに目を逸らした。
『佐江子は、何かしたいことある?』
『……あたしの夢は、ずっと前から一つだけだよ』
『……うん……そう、だよね』
晴くんのことを見れなかった。だって、今更そんなことを言ったって、叶えられる訳がない。だから、つい口にしてしまっただけ。
『いい。あたしのことは気にしないで』
あたしの言葉に、眉を顰めた晴くんは何も言わなかった。
晴くんを困らせたりはしたくないのに、出てきてしまった本音。あたしはその夢を絶対に口にはしないと決めていた。
月日は経ち、子供は大きくなって手が掛からなくなって、あたしにも余裕が出てきた。
晴くんとの時間も考えなくてはならないと、早朝からencounterに来て朝ごはんを一緒に食べるようになった。
晴くんに初めて作ってあげたのは、特製厚焼きたまごサンド。仕事が忙しくてなかなかゆっくり座って食べれない姿を見て、簡単に食べられるように得意な厚焼きたまごをふわふわの食パンで挟んだ。「美味しい」と言ってあっという間に食べちゃうから、嬉しかったのを思い出す。
そんなある日の朝、珍しく飲みすぎたのか、やけに上機嫌な晴くんが突然こんなことを言い出したことがあった。
『いつか佐江子の夢、叶えようよ』
酔っ払いの戯言だと、相手にしないようにいつもの眠気覚ましのコーヒーを淹れて、心を落ち着かせた。
『晴くんはBARがあるでしょ? だから……』
『それなら、大丈夫だよ。ちゃんと後継者見つけたから。だけど、今すぐはさすがに辞めれない。佐江子のカフェを開く計画もちゃんと話して欲しいし』
『……え』
あたしが、今でもカフェを開く計画を諦めきれずにいたこと、気が付いていたの?
いつになく真剣な瞳は、からかっているようには見えなかった。
『……協力、してくれるの?』
『当たり前だよ。今まで僕はやりたいことをずっとやらせてもらってきたんだ。佐江子だって前は、いつかカフェを開きたいって語っていたでしょう』
微笑んでくれる晴くんに、あたしは涙が出るのを必死に堪えたんだ。