【私は今日も癒やしの『喫茶MOON』に通う】

第55話 夜空の下で甘い珈琲タイム

 星はいくつか空に瞬いている。
 夏の大三角が光る。
 ここは都心にわりと近い場所だから、満天の星なんて見たことがない。
 それでも貸し本屋さんの屋上は、人工の光が届きづらいのか地上よりは空に近いからか、普段より星を見つけられた。
 今日は風はないけれど湿気が少ないので、過ごしやすい。
 でも、マルさんの横に座ると、どうにも熱くて、火照ってくる。
 マルさんはそばのミニテーブルに置いたミニボトルから、芳しい珈琲を備え付けのカップに注ぎ淹れ、私にくれた。
 カップの中で微かに揺れてる琥珀色、ホッとする香り。

「アイスコーヒーです、どうぞ。喫茶『MOON』の珈琲だから美味しさは格別、保証付きです」
「ありがとうございます」
 喉の奥を冷たく香り高い珈琲が滑り落ちていく。
「……美味しい」
 克己さんと貴教さんの笑顔が浮かぶ。二人のマスターはいつ訪れても、心を込めて珈琲を淹れてくれてるのが分かる。喫茶『MOON』で珈琲や紅茶を飲むと、ざわざわとした気分も穏やかに、ホッとして優しい気持ちになれるから。
 雑味がないといったら良いのだろうか。透きとおった味。苦くて、ほんのり酸っぱく甘い。

「いつでも美味しいですよね。彼らの珈琲には安らぎがあります。……そうだ、いつか僕の田舎にチョコちゃんを連れて行ってあげたいな。蛍と星が有名な場所なんですよ。山や川しかありませんけどね」
「自然がいっぱいなんですね」
「えぇ。山を越えたら海にも出られますが、冬はなかなかに厳しいです。雪で閉ざされて、しかし幻想的な風景は広がります。氷柱《つらら》や滝が凍ったのなんか見ると面白いですよ。町おこしでかまくら祭をやるんです。ちっちゃなかまくらにろうそくを灯したり、炬燵《こたつ》を置いたかまくらに泊まったりして」

 喫茶『MOON』で会ったりするマルさんは物静かな印象だったけれど、冗舌に語る彼に私は目を見張る。
 マルさんは故郷のことが好きなんだなって私に伝わってくる。

「友人の貸し本屋は階下にもあるんですが、こちらでも読めるように……ほら」
 マルさんは立ち上がり、タープの下に置いてあった籐製のベンチを開けると本が整然と並んでいた。私がそばに寄ってマルさんの横に立って、見上げた先の瞳はとても柔らかな光が灯っていて、ドキリとする。
「チョコちゃんはどんな本が好きですか? ……こんな質問の仕方じゃ漠然としすぎかな?」
「そうですね。この中だと絵本とか好きです。持っていた絵本が何冊かあります。……あっ! このネズミが主人公の絵本。懐かし〜い」
「名作ですよね。かすてらに大きい卵の殻が印象的だったな。今でも子供達に大人気ですよ」
 私はそれからマルさんの思い出の本の話を聞いて、どうして本屋さんで働くことになったのかも教えてもらった。
 マルさんは図書館で働いていたこともあって。今の本屋さんは大学の先輩のお店で、一時期経営が危なかった時に手伝ったのが縁で働きだしたのだそう。
「僕の夢はこんな風に貸本屋さんを開くのも良いなと思っています。そのうち田舎に帰って小さなお店を持つのが夢です。チョコちゃんは何か夢がありますか?」
「夢……。恥ずかしいんですが、私はちゃんとした夢って無くって。何かになりたいとか、何かをやりたいとか、まだないんです」
「そうですか。小さくてもいいんですよ。そうですね、たとえばですね、毎月貯金をして電動の自転車を買うとか」
「ふふ、電動の自転車ですか?」
「ははっ。まぁ、今僕が欲しい物なんです。小さな夢を叶えているうちに夢が見えたりするかもしれません」

 マルさんは夏みかんのケーキを切り分けてくれた。
 一口分フォークで口に運ぼうとするとふわっとみかんの爽やかな香りがした。ホワイトチョコの小さなハートのチップが控えめに生地に入っていたのに気づいて、噛んでみるとパリッと音がした。
「美味しいです」
「貴教くんがサプライズって言っていた意味が分かった」
「「ハート」」
 マルさんと私の声がハモって、同時に笑った。
 貴教さんと克己さんの手作りのケーキは甘酸っぱくて口どけが軽かった。
「チョコちゃん……」
 私はマルさんから、おでこにキスされた。
 そっと。
 一度きり。
「困ったな。チョコちゃんを知る度にどんどん好きになっていくみたいだ」
「私もです」
「あまり会えなくてごめんね。僕がなるべく時間を作るようにするから」
「良いんです。私を気にかけてくれて、メールや電話もくれるし。マルさんに無理してほしくないから」
 優しく抱きしめられていた。マルさんの温かさがじんわりと伝わってくる。
「無理なんてしてない。僕が会いたいんです」
 私とマルさんは時間の許す限り、おしゃべりをしていた。
 穏やかな珈琲タイムは甘くて。
 とても素敵なデート。
 こんな風にマルさんが色々と考えて私を喜ばせようとしてくれるなんて、とても嬉しくてときめいていた。
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