ストーカー三昧・浪曲、小話、落語
講談1・お力(15)
いいですか?よろしゅうございますか?お客様。魂に妥協はございません。お力が現実をどんなに嫌い酌婦の身からきっぱり足を洗って結城朝之助と結ばれることを願おうとも、それは叶いません。
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阿漕の浦とはめったにない、めったに起きないことの例えです。三重県津市にある海岸の名前です。その昔にはここら一帯が伊勢神宮に供える魚介類の漁場となっていて一般漁民には禁漁区でした。ところが阿漕という名の漁民がたびたび禁を侵して漁をしたため捕えられ、この海に沈められたそうです。以後の「あこぎな奴」とはこの事件に由来するとか。ところで中宮璋子と佐藤義清との密会の有無が歴史に取り沙汰されますが、仮にこれが事実であったとして、すればこれはまさに阿漕の浦の事次第となるわけです。それは身分の違いから云っても、(男なら許されるが)女から密会を仕組んだことからしても、本朝では許されざることとあいなるわけですね。しかし当時本当に「佐藤とは怪しからぬやつ」「女が浮気・密会するとは」と云って轟々と非難されたでしょうか?これより前の古代で、ある女性が詠んだ「誰そこの屋の戸おそぶる新嘗(にひなみ)にわが背を遣りて斎ふこの戸を」という歌が万葉集に残っています。意訳すれば「小屋の戸を叩くのはだれ?男子禁制の新嘗の祭祀を、亭主を外に追い出してわたしが務めているのに、いったい誰よ?ああ、わたしの浮気相手の男ね。待ってて、いま開けるから」となります。この歌の意味するところは当時男女関係が至っておおらかで、女の主導・男の主導云々もなかったように想像されるということです。古代が母系社会だったこともありますが、その伝統をいくらかでも引きずっていただろうこの璋子と義清の時代においても、「阿漕の浦云々」はそれほどに指弾の対象とはならなかったのかも知れません。「男主体、女は隷属」はこれ以降のことと思われます。すれば佐藤が‘あこぎ’なやつで璋子がふしだらであるとも云い切れない。白河上皇始め性の乱脈が宮中で激しかったことからしても尚更です。出家した佐藤、すなわち後の西行法師がその和歌で璋子を月と詠んでいます。そこには手の届かぬもの、高貴をきわめるものへの尊敬とあこがれが感じられる。でははたして二人における阿漕の浦へいたる、その各々の実態はどのようなものであったのか…それを思索したこの小説です。興味本位、欲望本位に取らなかったのはこれひとへに西行法師の残した和歌ゆえのことです。それは素晴らしいもので、そこに嘘はまったく感じられません。情愛から神仏への愛…をも模索した所以です。
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これは前作「阿漕の浦奇談」の時代を超えた続きです。待賢門璋子が現代に生まれ変わってからのストーリーとなります。みなさんは転生輪廻をご存知ですか?同じ人間(魂)が何回も何回も名と身体を変えて生まれ死に生まれ死にすることを云うのです。では人はいったい何のために生まれ死にを繰り返すのでしょうか。おそらくそこには一回の人生ではカバーしきれない、その人なりの、時代を超えた命題があるからではないでしょうか。にもかかわらず一度死んで生まれ変わってしまうと、およそすべての人がその命題の「め」の字も忘れ果ててしまいます。それどころか前生とまったく同じような人生を、同じ過ちを何度でも仕出かしてしまうのかも知れません。この有り様と、しかしそこから少しでも脱しよう、進歩しようとする、時代を超えて人に内在されたもの(それは果してなんでしょうか?)を描きたくペンを起こしました。彼の西行法師の、今に残る和歌に啓発されて書き出したというのが、前作ともどもそもそもの所以でもあります。換言すれば六道輪廻からの脱出、真の出家の心とは?…が小説の命題となりましょうか。凡夫の私には過ぎた命題ですが、それゆえのカオスへ肉迫しようとする姿が、ひょっとしたらそこにあるやも知れません。笑いながらでもご教示がてらにお読みくだされば幸甚です。
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女性の間で時代を超えて、いつまでも輝きを失わない文学作品と云えば「源氏物語」でしょう。作者は紫式部。生前その紫式部の生まれ変わりではないかと云われた作家が樋口一葉です。こちらも式部同様、女性の間で人気の高い作家だと思われますが、しかし単に女性のみならず、性別や世代までを超えて、我々日本人に広く愛され続ける作家だと云えましょう。彼女の作品がと云うよりは一葉自身が好かれているのだと思います。でもそれはいったいなぜだと思いますか?かくお尋ねする私自身が一葉の大ファンでして、実は自分でもわけのわからないその理由を模索するためにこの小説執筆を思い立ったのです。模索する上でいちばん手っ取り早い方法は一葉本人に会って、暫しの交誼をお願いするのがベストだと思いました。そこで、私は一葉をいっとき平成の御世(この4月で終りますがね)にワープさせて、その上で私と対談してもらうことを思い立ったのです。場所はなぜか大森、東京都大田区の大森です。実はその大森で、なかんずく区内の某公園でこの構想を思い立ったがゆえのことなのですが、その事と次第は小説内でサブ主人公の「私」自身に述べさせることにしましょう。さあ、では論より‘小説’、樋口一葉の真実(まこと)を知るべく、さっそくあなたも奇跡の現場へと赴いてください。大森の夜の公園へと、私がエスコートいたします…。
おっと、これでは筆足らずでした。一葉との現代における邂逅のあとで、実はこんどは私が明治の御世へと一葉を訪ねてまいります。やはり往時の彼女まで確認しませんとね。でも訪ねるとは云ってもある特殊な媒体(こう書くと当人たちに失礼なのですが)を通じてのことで、私自身が小説内に登場することは次の明治編ではありません。彼女の男の友人たちという媒体の中に私は潜り込もうと思っているのです。斉藤緑雨とか平田禿木とかの中にですね。
とにかく、こうした時代を跨いでの模索の末に彼女の実像というか、本懐を描き得ましたらば作家冥利に尽きるというものです。現紙幣になるような国民的作家というよりは、私始め我々日本人に愛され続けて止まない樋口一葉のその実体を、所以を、私は皆様の前でまつぶさにしてみたいのです…。
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