ストーカー三昧・浪曲、小話、落語

講談1・お力(17)

 さて!(張り扇一擲!)この講釈の始まりの頃に…えー、具体的には10ページ目の冒頭6行辺りにおいて、わたくしは「一葉はお力の中に偽らざる自らを曝け出し、どうかするともう居直ってさえいるようです。自らの実存の様を読者にバーンとぶつけて、さあどうだ、笑うなら笑え、蔑むなら蔑め…とでも云っているかのようです。自らの苦しみを隠すことなく、また自分に誤魔化すことも最早せず、お力の人生を成り行きの彼方に昇華さえさせているように見えます」と講釈致しております。ではその成り行きの彼方に昇華させたお力の人生の終末は、最後は、果していかがなものだったのでしょうか?ここでまた一葉原作「にごりゑ」から原文を引きましょう。
「魂祭(たままつり)過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕(かご)にて一つはさし擔(かつ)ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運の悪い詰らぬ奴に見込まれて可愛さうな事をしたと云へば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ち話をして居たと云ふ確かな證人もござります、女も逆上(のぼせ)て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろと云ふもあり、何のあの阿魔(海女)が義理はりを知らうぞ湯屋の歸りに男に逢ふたれば、流石に振離(ふりはな)して逃る事もならず、一處に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟(うしろげさ)、頬先(ほゝさき)のかすり疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ひない、引かへて(それに比べて)男は美事な切腹、蒲團屋の時代から左のみの男(女遊びなど、いい加減な男、落語言葉で云う半公)と思はなんだがあれこそは死花(しにばな)、偉(ゑら)さうに見えたと云ふ…
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