ストーカー三昧・浪曲、小話、落語
講談1・お力(23)
当たり前、へへへ。しかし美しく紅葉したもみじ葉であるならば、木から散ってこそ、あちら岸へと、彼岸へと渡ることがあるいは叶うやも知れません。そのもみじ葉とも云うべきお力は散って(散らされて?)彼岸へと、なかんずく悟りの彼岸へと到達できたのでしょうか?原文の「恨(うらみ)は長し人魂(ひとだま)か…」を見る限りそうとは思えませんね。御霊は浮かばれずに迷うたままなのでしょう……しかし、しかしですよ、皆様。ここで改めて私が問いたいことは、このお力を殺めた憎っくき源七とは、これはいったい誰でしょう?何なんでしょう?……いやもちろん、小説で云えばそれは妻帯者でありながらお力に岡惚れして廓に通い続け、身上を潰しかねない男である分けなのですが、恐らく…この源七というのは作者・一葉も気づいていなかったかも知れない、一葉がこの男に投影したところの自己の一姿が、いや二姿があったと思うのです。そのひとつは、この源七は一葉自身、引いてはお力自身の姿と云うか思い、姿勢だったのではないでしょうか。つまり一葉の中に居る今一人の一葉が現実の一葉に岡惚れしている分けです。あるいはお力が「私は凄い。菊の井にはもったいない程のイイ女だ」とばかりに自分に思い入れをしている…と見るのです。ですから実は、この今一人の一葉とお力こそが本当の一葉でありお力である分けですね。この本当の自分が現実の自分に対して自負心を持っている。一葉自身で云えば「私は女だてらに男と拮抗して小説を書いている。男に負けないほどの。のみならず私は書いた作品と自分との、引いては人生との一致を目指している。それもこんな貧窮の中にあってだ。私という女は大したものだ」てな具合いですね。