寵姫は正妃の庇護を求む

第1話 傾国の夢

 鬱蒼(うっそう)とした森の中を、私――ソウビ・アーヌルスは死に物狂いで逃走していた。ローズピンクの髪を振り乱し、息を切らせ、藪にドレスを裂かれ、ぬかるみに足を取られながら。
 ハァ、ハァ、ハァ……
(いや、死にたくない……!)
 繻子(しゅす)とヤギ皮で作られた繊細なデザインの靴は、片方どこかへ落としてしまった。割れて血のにじむ足の爪に構う余裕もなく、ただ走り続ける。
(私は、生きたかっただけなのに)
 望まぬ男に媚びを売り、趣味でないドレスに喜んで見せ、苦手な酒を口にしたのも、全ては死にたくないがため。
(なのに、なぜ……)

「いたぞ!!」
 藪をかき分け、農具を手にした村人たちが飛び出してきた。
「毒婦のソウビだ!!」
 背に楔を打ち込まれたように体が強張る。村人たちの目には、隠しようのない殺気が宿っていた。剥き出しの憎悪が、私の肌をチリチリと焼く。
(殺される)
 黒く鈍く光る農具に目をやり、私は浅い呼吸を繰り返す。冷たい汗が額に浮かび、それが頬を伝って落ちた。

 そこへ思わぬ人物が現れた。私はあえぐように彼の名を口にする。
「テンセイ!」
「……」
 誠実みあふれる整った顔立ち、固く引き結ばれた口元。均整が取れ筋骨隆々とした体つきは、服の上からでも見て取れる。静かな眼差しの下で光るのは、猛獣を思わせる金色の目だ。
「テンセイ、お願い、見逃して……」
 わななく唇を何とか動かし、一縷の望みをかけて私は彼に懇願する。
「ねぇ、仮にも私はあなたの婚約者だったのよ?」
 王の心をとろかした微笑みと甘い声。それが今の私に残された最後の武器だった。
「王の命令で別れさせられたとはいえ、今でも私はあなたを……」
 白桃のようだとほめそやされた白い腕を、私はかつての婚約者へとのばす。
「……ソウビ殿」
 耳に届いたのは、低く深みのある固い声。金色の瞳が私をとらえる。
簒奪王(さんだつおう)ヒナツの寵愛を良いことに、民の命を軽んじ国を傾けた事実、断じて許されることではない」
 テンセイは近づくと、私を抱くように、その大きな左手を背へと回した。
「――御免!」
「!?」
 胸を貫く鋭い痛み。目をやれば、そこから生えていたのはテンセイの短剣の柄だった。やがてごぼごぼと喉元をせり上がってきた赤い液体が、口から勢いよく飛び出す。
「かふっ」
(どうして?)
 見上げると、テンセイの悲しみをたたえた視線とぶつかった。
「ソウビ殿、他の者に蹂躙(じゅうりん)されるよりはせめて我が手で……!」
 再びの衝撃がこの身を襲う。二本目の剣が、私の体に突き立てられていた。
(なぜ、テンセイが……)
 体から力が抜け、足元から崩れ落ちる。意識が暗闇の奥へと飲み込まれてゆく。
(私を殺すの――?)
 冷たい地面が、私の背を打ったのを遠くに感じていた。


「ぷはっ!」
 私――上水流(かみずる)めぐりは目を開き、荒い呼吸を繰り返した。まるで限界まで水中へ潜り、ようやく水面に顔を出せた時のように。
(夢……)
 見回せば、いつもの私の部屋。朝の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいる。ここは鬱蒼と茂った森の中ではない。農具を構えた追手もいない。
 私を咎める眼差しの、金色の瞳の偉丈夫もいない。胸に剣も刺さっていない。
「……」
 やがて出遅れた目覚まし時計が、ピピと音を鳴らす。アラームを止め、私は額にびっしょりと浮かんだ汗をぬぐった。
(まだ心臓がバクバクいってる……)
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