寵姫は正妃の庇護を求む
第8話 婚約解消
真紅の部屋に、強めのノックの音が響く。
「ソウビ、入るぞ!」
品性のない大声の後、扉は乱暴に押し開かれた。赤い髪の王が無遠慮に足を踏み入れ、やがて部屋の主が留守であることを理解する。
「ソウビはまた留守か。いつもいつも、一体どこをほっつき歩いてるんだ?」
――あはは。
外からの声を、その耳が敏感にキャッチする。ヒナツは大股で窓辺へと近づくと、眼下に目をやった。
「それでね、チヨミ。その時ね」
「本当に? ソウビったら、あははは」
庭園を仲睦まじく散歩する、妻と前王の娘の姿がそこにあった。
「ソウビめ、またチヨミと一緒か……。いつの間にあんなに仲良くなったんだ」
面白くなさげに、ヒナツは口をとがらせる。そこに王の威厳らしきものは欠片もない。
「仲が良いのはいいが、俺の入り込む隙がないじゃないか」
ヒナツは仲間はずれにされた子どものようにむくれていたが、一転そこに野生じみた表情が浮かぶ。
「まぁ、どうあっても俺のものになってもらうがな、ソウビ。この王位を確実なものにするには、前王の娘であるお前が必要だ」
野心に満ちた笑みをたたえ、若き王は真紅の部屋を後にした。
■□■
その残酷な知らせは、チヨミとティータイムを楽しんでいた時に届けられた。
指から離れた白い陶磁器が、琥珀色の液体を振りまきながら地面へと落ちる。それは澄んだ音を立てて砕け散った。
「――今、なんて……?」
耳にした言葉が信じられず、私はあえぐように問い返す。伝令に使わされた人物は、よりにもよって私の最愛の推し、テンセイだった。
「テンセイ……、ウソ、でしょ?」
悪い冗談だと信じたい。笑ったような顔のまま固まっている私に、テンセイは首を横に振った。
「噓ではございません。先ほどヒナツ王より、ソウビ殿と自分との婚約を解消するとの示達がなされました。ソウビ殿、貴女をヒナツ王ご自身の寵姫とするために」
「……っ!」
「これは命令ではなく、決定事項とのことです」
頭の奥で何かがガンガンとなっている。視界が暗くなり、喉がカラカラになった。脳が理解することを拒み、ぐらぐらと世界が揺れる。
「ソウビ殿、危ない!」
ふらついた私を、逞しい腕が受け止めてくれた。布越しにもわかる筋肉の凹凸、厚い胸、若木のような匂いと、武骨ながら優しく熱い大きな手。それを感じ取った瞬間、散りかけていた意識が一気に凝縮した。そうだ、私の好きな人はこのテンセイ。今、私を抱き止めてくれている人。
ヒナツじゃない!
「っ!! ふざけんな、あの野郎!!」
考える前に、怒りが喉からほとばしった。
「ソウビ……!」
チヨミが戸惑った表情で私に駆け寄ってくる。
けれど私はその脇をすり抜け、地面を蹴りつけ疾駆した。
「ソウビ殿!? どこへ行かれるのです、ソウビ殿!」
背に投げかけれたテンセイの言葉に、私は怒鳴り返す。
「あの脳みそ海綿体のクソ色ボケ自称俺様系モラハラ王をぶん殴ってくる!!」
「ソウビ、待って!! それはダメよ!」
「いけません、ソウビ殿!! お待ちください!!」
■□■
チヨミは嵐のように去り行く二人を呆然と見送る。やがて王の妻は呻くようにその名を口にした。
「……。ヒナツ……」
それは聞く者の胸を裂くほど、悲痛な声だった。
■□■
堪えきれぬ怒りが腹の底を焼く。それが凄まじいパワーとなって全身を駆け巡り、今の私を突き動かしていた。やがて謁見の間の入り口が見えてくる。私はその勢いのまま、扉を蹴破った。
「ヒナツッ!!」
飛び込んできた私に特に驚くでもなく、ヒナツは玉座の上から冷たく私を見下ろしている。そして一つ欠伸をすると、次には空々しいほど満面の笑顔となった。
「ソウビではないか。お前が自ら俺の元へと足を運ぶとは珍しいこともあるものだ」
その笑顔の中で、瞳だけが禍々しく光る。
「だが、呼び捨ては感心せんな。お前は元王女ではあるが、今の王は俺だ」
「……っ」
「そういうのは、寝所で二人きりの時に、な」
「ふざけるな! ふざけるな!! ふざけるなぁああっ!!」
私は足を踏み鳴らし、あらん限りの声で叫んだ。
「私はあんたの寵姫になんてなりたくない!! 私が好きなのはテンセイなんだから!!」
「……」
「今すぐ彼との婚約解消を撤回して!!」
「断る」
まるで羽虫を払うがごとき、軽く抑揚のない声。
(どう、して……)
私はヒナツに好かれぬよう、出来る限り気を配った。
距離を置き、接点を無くし、好きや嫌い以前に『無』の関係であるよう努めた。
彼が私を気に入る機会など、これまでなかった筈だ。
(なのに、どうして……)
拳を震わせる私を前に、ヒナツはこともなげに言い放つ。
「一貴族アルボル家の使用人から、ただ自らの策と武勇で王となった俺を、成り上がり者と謗る声も未だ多くてな。俺には前王の娘であるお前が必要なのだ。王家の正当な後継者として皆に認めさせるためには」
「な……!」
自分に必要なのは、ソウビの中に流れる王家の血のみ。ヒナツは今、そうはっきり言った。そこに愛情など関係ない、好かれようと嫌われようと、ただ自分が王であるために、ソウビが欲しいのだと。
「そう怒るな」
破顔一笑し、ヒナツは言葉を続ける。
「お前の身分はひとまず寵姫とするが、いずれチヨミを廃しお前を正妃に迎える。そうなれば、王女だったお前が本来就くはずだった地位に舞い戻れる。この国の女の頂点に君臨できるのだぞ?」
「そんなの……、私、望んでない! だいたい……」
抑えようとしても声が震える。
「なにが策と武勇で成り上がった、よ! その策はチヨミが考えたものでしょう!?」
ヒナツの顔に、初めて狼狽の色が浮かんだ。しかしすぐに、野心に満ちた獣の顔つきに上書きされる。
「知っていたのか……」
当然だ。チヨミとして指示を出していたのは、他ならぬプレイヤーの私なのだから。
「あんたがこの地位につけたのは、半分はチヨミの手柄じゃない! なのにチヨミを廃する!? 恩知らず! 最っ低!!」
「……」
「策がチヨミのものだったってことは周囲に黙っててあげる。だから私とテンセイとの婚約を……」
「断ると言った」
「っ!!」
固く、無機質な声。必死の思いで立てる爪をまるで意に介さない。獲物を前にした猛獣のごとき眼差しが私を貫く。
「ソウビ、お前は俺のものだ。この地位を盤石にするために。そして何より……」
次の瞬間、ヒナツは腹立たしいほど無邪気に笑った。
「その麗しい顔に似合わぬはねっかえりのお前を、俺はとても気に入っているのだ」
「この……!」
ヒナツのこちらを完全になめてかかった物言いに、一気に頭が沸騰した。
「殴らせろっ!!」
「いけません、ソウビ殿!!」
玉座に向かって突進しようとした私を、背中からがっしりと抱き止めた腕があった。
「テンセイ!?」
「ソウビ殿、これ以上はいけません。いくらお気に入りの貴女でも処刑されてしまう!」
「っ! だけど……っ、だけど!!」
ヒナツは白々とした炎を双眸に宿したまま、薄笑いを浮かべて私を見下ろしていた。
「ヒナツ王、ソウビ殿は突然のことに混乱しておられます。どうか寛大な処置をお願いします!!」
テンセイの、魂を震わせるほど必死に助命を求める言葉。だがそれに返ってきたのは、ひどくあっけらかんとした声であった。
「ははは、問題ない。愛らしい子猫が手の中でもがいて暴れて爪を立てるのを、楽しんでいただけだ」
(な……)
「はっ。王よ、感謝いたします! では我々はこれにて」
テンセイは声を押さえ、私に耳打ちする。
「ソウビ殿、こちらへ」
「……」
私を捕らえているのが偉丈夫のテンセイでなくとも、私をその場から連れ出すのは容易かったろう。抵抗する気力は、ヒナツの言葉で完全に損なわれていたのだから。
(楽しんでいた? 私の必死の抗議を?)
ずる、ずると引きずられながら、私は謁見室をあとにする。私を嘲笑うような視線が、玉座から注がれていた。
■□■
部屋の外へローズピンクの髪が消え、扉が冷たく閉ざされる。
「ふん……」
その場に一人きりとなった赤髪の王は、つまらなさげに一度鼻を鳴らした。
「ソウビ、入るぞ!」
品性のない大声の後、扉は乱暴に押し開かれた。赤い髪の王が無遠慮に足を踏み入れ、やがて部屋の主が留守であることを理解する。
「ソウビはまた留守か。いつもいつも、一体どこをほっつき歩いてるんだ?」
――あはは。
外からの声を、その耳が敏感にキャッチする。ヒナツは大股で窓辺へと近づくと、眼下に目をやった。
「それでね、チヨミ。その時ね」
「本当に? ソウビったら、あははは」
庭園を仲睦まじく散歩する、妻と前王の娘の姿がそこにあった。
「ソウビめ、またチヨミと一緒か……。いつの間にあんなに仲良くなったんだ」
面白くなさげに、ヒナツは口をとがらせる。そこに王の威厳らしきものは欠片もない。
「仲が良いのはいいが、俺の入り込む隙がないじゃないか」
ヒナツは仲間はずれにされた子どものようにむくれていたが、一転そこに野生じみた表情が浮かぶ。
「まぁ、どうあっても俺のものになってもらうがな、ソウビ。この王位を確実なものにするには、前王の娘であるお前が必要だ」
野心に満ちた笑みをたたえ、若き王は真紅の部屋を後にした。
■□■
その残酷な知らせは、チヨミとティータイムを楽しんでいた時に届けられた。
指から離れた白い陶磁器が、琥珀色の液体を振りまきながら地面へと落ちる。それは澄んだ音を立てて砕け散った。
「――今、なんて……?」
耳にした言葉が信じられず、私はあえぐように問い返す。伝令に使わされた人物は、よりにもよって私の最愛の推し、テンセイだった。
「テンセイ……、ウソ、でしょ?」
悪い冗談だと信じたい。笑ったような顔のまま固まっている私に、テンセイは首を横に振った。
「噓ではございません。先ほどヒナツ王より、ソウビ殿と自分との婚約を解消するとの示達がなされました。ソウビ殿、貴女をヒナツ王ご自身の寵姫とするために」
「……っ!」
「これは命令ではなく、決定事項とのことです」
頭の奥で何かがガンガンとなっている。視界が暗くなり、喉がカラカラになった。脳が理解することを拒み、ぐらぐらと世界が揺れる。
「ソウビ殿、危ない!」
ふらついた私を、逞しい腕が受け止めてくれた。布越しにもわかる筋肉の凹凸、厚い胸、若木のような匂いと、武骨ながら優しく熱い大きな手。それを感じ取った瞬間、散りかけていた意識が一気に凝縮した。そうだ、私の好きな人はこのテンセイ。今、私を抱き止めてくれている人。
ヒナツじゃない!
「っ!! ふざけんな、あの野郎!!」
考える前に、怒りが喉からほとばしった。
「ソウビ……!」
チヨミが戸惑った表情で私に駆け寄ってくる。
けれど私はその脇をすり抜け、地面を蹴りつけ疾駆した。
「ソウビ殿!? どこへ行かれるのです、ソウビ殿!」
背に投げかけれたテンセイの言葉に、私は怒鳴り返す。
「あの脳みそ海綿体のクソ色ボケ自称俺様系モラハラ王をぶん殴ってくる!!」
「ソウビ、待って!! それはダメよ!」
「いけません、ソウビ殿!! お待ちください!!」
■□■
チヨミは嵐のように去り行く二人を呆然と見送る。やがて王の妻は呻くようにその名を口にした。
「……。ヒナツ……」
それは聞く者の胸を裂くほど、悲痛な声だった。
■□■
堪えきれぬ怒りが腹の底を焼く。それが凄まじいパワーとなって全身を駆け巡り、今の私を突き動かしていた。やがて謁見の間の入り口が見えてくる。私はその勢いのまま、扉を蹴破った。
「ヒナツッ!!」
飛び込んできた私に特に驚くでもなく、ヒナツは玉座の上から冷たく私を見下ろしている。そして一つ欠伸をすると、次には空々しいほど満面の笑顔となった。
「ソウビではないか。お前が自ら俺の元へと足を運ぶとは珍しいこともあるものだ」
その笑顔の中で、瞳だけが禍々しく光る。
「だが、呼び捨ては感心せんな。お前は元王女ではあるが、今の王は俺だ」
「……っ」
「そういうのは、寝所で二人きりの時に、な」
「ふざけるな! ふざけるな!! ふざけるなぁああっ!!」
私は足を踏み鳴らし、あらん限りの声で叫んだ。
「私はあんたの寵姫になんてなりたくない!! 私が好きなのはテンセイなんだから!!」
「……」
「今すぐ彼との婚約解消を撤回して!!」
「断る」
まるで羽虫を払うがごとき、軽く抑揚のない声。
(どう、して……)
私はヒナツに好かれぬよう、出来る限り気を配った。
距離を置き、接点を無くし、好きや嫌い以前に『無』の関係であるよう努めた。
彼が私を気に入る機会など、これまでなかった筈だ。
(なのに、どうして……)
拳を震わせる私を前に、ヒナツはこともなげに言い放つ。
「一貴族アルボル家の使用人から、ただ自らの策と武勇で王となった俺を、成り上がり者と謗る声も未だ多くてな。俺には前王の娘であるお前が必要なのだ。王家の正当な後継者として皆に認めさせるためには」
「な……!」
自分に必要なのは、ソウビの中に流れる王家の血のみ。ヒナツは今、そうはっきり言った。そこに愛情など関係ない、好かれようと嫌われようと、ただ自分が王であるために、ソウビが欲しいのだと。
「そう怒るな」
破顔一笑し、ヒナツは言葉を続ける。
「お前の身分はひとまず寵姫とするが、いずれチヨミを廃しお前を正妃に迎える。そうなれば、王女だったお前が本来就くはずだった地位に舞い戻れる。この国の女の頂点に君臨できるのだぞ?」
「そんなの……、私、望んでない! だいたい……」
抑えようとしても声が震える。
「なにが策と武勇で成り上がった、よ! その策はチヨミが考えたものでしょう!?」
ヒナツの顔に、初めて狼狽の色が浮かんだ。しかしすぐに、野心に満ちた獣の顔つきに上書きされる。
「知っていたのか……」
当然だ。チヨミとして指示を出していたのは、他ならぬプレイヤーの私なのだから。
「あんたがこの地位につけたのは、半分はチヨミの手柄じゃない! なのにチヨミを廃する!? 恩知らず! 最っ低!!」
「……」
「策がチヨミのものだったってことは周囲に黙っててあげる。だから私とテンセイとの婚約を……」
「断ると言った」
「っ!!」
固く、無機質な声。必死の思いで立てる爪をまるで意に介さない。獲物を前にした猛獣のごとき眼差しが私を貫く。
「ソウビ、お前は俺のものだ。この地位を盤石にするために。そして何より……」
次の瞬間、ヒナツは腹立たしいほど無邪気に笑った。
「その麗しい顔に似合わぬはねっかえりのお前を、俺はとても気に入っているのだ」
「この……!」
ヒナツのこちらを完全になめてかかった物言いに、一気に頭が沸騰した。
「殴らせろっ!!」
「いけません、ソウビ殿!!」
玉座に向かって突進しようとした私を、背中からがっしりと抱き止めた腕があった。
「テンセイ!?」
「ソウビ殿、これ以上はいけません。いくらお気に入りの貴女でも処刑されてしまう!」
「っ! だけど……っ、だけど!!」
ヒナツは白々とした炎を双眸に宿したまま、薄笑いを浮かべて私を見下ろしていた。
「ヒナツ王、ソウビ殿は突然のことに混乱しておられます。どうか寛大な処置をお願いします!!」
テンセイの、魂を震わせるほど必死に助命を求める言葉。だがそれに返ってきたのは、ひどくあっけらかんとした声であった。
「ははは、問題ない。愛らしい子猫が手の中でもがいて暴れて爪を立てるのを、楽しんでいただけだ」
(な……)
「はっ。王よ、感謝いたします! では我々はこれにて」
テンセイは声を押さえ、私に耳打ちする。
「ソウビ殿、こちらへ」
「……」
私を捕らえているのが偉丈夫のテンセイでなくとも、私をその場から連れ出すのは容易かったろう。抵抗する気力は、ヒナツの言葉で完全に損なわれていたのだから。
(楽しんでいた? 私の必死の抗議を?)
ずる、ずると引きずられながら、私は謁見室をあとにする。私を嘲笑うような視線が、玉座から注がれていた。
■□■
部屋の外へローズピンクの髪が消え、扉が冷たく閉ざされる。
「ふん……」
その場に一人きりとなった赤髪の王は、つまらなさげに一度鼻を鳴らした。