後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 でも、それから2週間ほどは店に行けませんでした。
 気まずくなったわけではありませんが、どういう顔をして行けばいいかわからなかったからです。
 それでも、これ以上間隔が空くと永遠に行けなくなるような気がして重い腰を上げて自転車にまたがりました。
 
 わたしの顔を見た途端、店先で掃除をしていた奥さんの顔がパッと明るくなりました。
 そして店の奥で作業をしているご主人に向かって声をかけて手招きをすると、ニコニコしながら店先に顔を見せました。
 抱き合いませんでしたが、そんな雰囲気で喜んでくれたのが嬉しかったことを覚えています。
 
 暫く近況を報告し合ったあと、奥さんが店からチラシのようなものを持ってきてわたしの前で開きました。
 ミニコミ誌でした。
 赤いボールペンで囲んだところを指差したので見ると、アルバイト募集と書いてありました。
「とても美味しいベーカリーさんなの。いつも行列ができるくらい人気の店なのよ。それに私たちと同じくらいの年齢のご夫婦がやっているからどうかなって思って」
 わたしに紹介しようとずっと待っていたのだそうです。

 水曜日から日曜日の週5日勤務で、時間は朝7時から11時まででした。時給は900円で、月に直すと72,000円になります。
 家賃をカバーできる金額です。
 それに人気のベーカリーで働くのはとても楽しそうに思えたので、すぐにその気になりました。
 
 同じ商店街の中にあるその店に奥さんが連れて行ってくれました。
 オーナー夫妻に紹介してくれて、推薦の言葉を添えてくれましたが、昼の繁忙期の直前だったせいか、「後日面接をしたいので履歴書を持ってきてください」とだけ言って仕事に戻っていきました。
 気づいたらお客さんが一気に増えていました。
 これ以上いたら邪魔になるので店から出ましたが、香ばしいパンの香りがわたしを誘惑するようにいつまでもまとわりついていました。
 
 奥さんと別れたあと、文房具店に寄って履歴書を買い、急いで部屋に戻りました。
 椅子に座って何を書こうかと暫し考えましたが、特記するようなことは思い浮かばなかったので、名前と住所と高校中退とだけ書きました。

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