後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
『旅行から帰ってきた時、あなたが出て行ったことを知りました。ブレーカーが落とされ、家の鍵が郵便受けに残されていました。あなたの荷物はほとんどなくなり、大きなスーツケースとバックパックもなくなっていました。その上、書き置いた手紙が破られて机の上に散乱し、ゴミ箱は破られた写真で溢れていました。すべてあなたと私の2人が写っていた写真でした。あなたとお父さんの写真は抜き取られていました。それらを見て、あなたが私に愛想を尽かしたことがわかりました。絶縁の意思を感じました。

 すべて私の責任です。あなたにきちんと向き合わなかった私の責任です。何故主治医と男女関係になったのか、何故プロポーズを受け入れたのか、段階を踏んであなたに話すべきでした。そうすれば、もっと違った形になっていたかもしれないと思うと、心が痛みます。それでも、あなたは許してくれなかったかもしれません。あなたは大のお父さん子だったから、お父さん以外の男性が父親になることは認めたくなかったのでしょう。その上、父親が違う妹か弟が私のお腹の中にいるなんて、あなたにとっては信じがたいことだったでしょうし、有りえないことだったのでしょう。自分の周りの世界が一気に変わってしまったことを受け入れるのは難しかったのだと思います。

あなたのお父さんが突然死んだ日、私も死にたかった。あとを追いたいと思いました。生きる望みを失ったのです。母親なら悲しみを乗り越えて子供と二人で生きていくのが当たり前と思うかもしれませんが、そんな気はまったく起きませんでした。私にとってあの人がすべてだったのです。あの人がいたから、あの人の分身であるあなたを愛せたのです。でも、あの人は突然いなくなってしまった。最後の別れを告げることさえできず、あの人は遠い所に旅立ってしまった。あの日から私は抜け殻になってしまったのです。心の中にぽっかりと穴が空いてしまったのです。

 あなたのお陰で、病院に連れて行ってくれたお陰で、なんとか生き続けることはできました。でも、生ける屍であることに変わりはありませんでした。ただ呼吸をしていただけでした。あなたの前では元気なふりをしていましたが、一人になると死ぬことばかり考えていました。生きていても何も楽しくないからです。薬を飲んで、カウンセリングを受けて、ただ生きる真似をしていたというのが正直なところです。

 そんな私を主治医は優しく見守ってくれました。ただただ優しく見守ってくれました。それは父親のような優しさだったと思います。心の穴を埋めようとするのではなく、大きな愛で包もうとしてくれたのです。そして、たっぷりと時間をかけて、頑なな氷塊を溶かしてくれたのです。決して励まさず、無理に空白を埋めようとはせず、時間という薬を与え続けてくれたのです。気づいたら主治医に心を寄せていました。週に2回、午後が休診になる木曜日と土曜日に食事を共にするのが楽しみになりました。食事が終わってからも一緒にいたいと思うようになりました。そして、関係が深まっていきました。妊娠がわかった時、自殺願望は消え、生きる力が湧きだしてくるのを感じました。私を必要とする新たな命がお腹の中にいると感じた時、一歩前に踏み出せそうな気がしました。そして、私が元気になればあなたも喜んでくれると勝手なことを考えていました。だから、妊娠と結婚を受け入れてくれるのではないかと内心思っていました。しかし、そうではありませんでした。あなたは裏切られたと感じたのでしょうね。あなたのいない部屋で、破られた手紙と写真を見てつくづくそう思います。

 あなたがいなくなって、心の中にもう一つ大きな穴が空いてしまいました。あなたのお父さんが急死した時と同じ大きさの穴です。もうこれ以上穴が空くことはないと思っていたのに、違っていました。これほどまでにあなたの存在が大きかったことを気づかされました。そして、あなたがお腹の中にいた時のことを思い出しました。生まれた時の感激を思い出しました。あなたの産声とあなたのお父さんの笑顔を思い出しました。あの日から三人で一つだったことを思い出しました。

 私は夫の急死というショックに見舞われた瞬間、不幸の鎧を着て自分の殻の中に閉じこもってしまいました。そして、誰にも心を開こうとしませんでした。一人娘のあなたにさえも開きませんでした。きっと、父親似のあなたを見るのが辛かったからだと思います。あなたのお父さんを思い出してはいつも泣いていましたから。

 これからあなたが破った写真を一つずつ直していこうと思っています。どれほど時間がかかるかわかりませんが、必ずやり切るつもりです。全部修復出来た頃にはあなたが戻ってくると信じてやり続けます。本当にごめんなさい。許してください。戻ってきてください。後生です』
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