『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 無理を言って翌日家に届けてもらいました。
 部屋に設置してもらうと、付属品のヘッドフォンを付けて、鍵盤に手を置きました。
 そして、母の顔を思い出そうとしました。
 でも、思い出せませんでした。
 諦めて、母の好きな曲を思い出そうとしました。
 これはすぐに思い出しました。
 母が一番好きな曲は父が一番好きだった曲だからです。
 それは、『WHAT A WONDERFUL WORLD』
 
 イントロを弾くと、クリスタルな響きが耳の中に広がりました。
 歌の旋律に移ると、わたしのピアノに合わせて父と母が歌う声が聞こえてきました。
 緑の森と青い空、
 輝くような虹、
 赤ちゃんの泣き声、
 それらがすべて頭に浮かぶと、いつの間にかわたしも歌っていました。
 頭の中で三人がハーモニーを奏でていました。
 
 目を瞑ると、幼いわたしがピアノを弾いている姿が浮かんできました。
 その両脇に両親の笑顔がありました。
 父が楽しそうに歌っていました。
 母もわたしを見つめながら歌っていました。
 母の顔がはっきりと見えました。
 優しくて美しくて大好きな母の顔でした。
 
 おかあさん、
 ねえ、おかあさん、
 もうおとうさんに会えた? 
 あの世で待っていたおとうさんに会えた? 
 もう離れてはダメだよ、
 いつも一緒じゃなきゃダメだよ、
 おかあさん……、
 
 でも、返事はありませんでした。
 父も母も、もうこの世にはいないのです。
 涙が右手に落ちると、そこには寂寥(せきりょう)の海が広がっていました。
 左手には寂寞(せきばく)の泉が湧き出していました。
 その間に孤独の滝が流れ落ちていました。
 
 独りぼっちになっちゃった……、
 
 呟きが鍵盤に落ちて凍りつきました。
『ルイ』と名付けたピアノにしがみついて、声を上げて泣きました。

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