『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 素晴らしい古民家だった。
 築100年の平屋建てで、和室が7室に台所と土間という堂々たる建屋だった。
 土地の広さは350坪で、裏には林が広がっていた。
 
 中に入ると、畳はかなり使い古されたものだったが、却ってそれが古民家らしさを醸し出していた。
 台所は二つのスペースで構成されていた。
 板の間にテーブルを置いた場所と囲炉裏のある場所だ。
 囲炉裏の周りには(わら)で編んだ円座(えんざ)が置かれていた。
 座ると、とても懐かしい感じがした。
 それに、温かかった。
 合成繊維に慣れている現代人にとって自然が紡ぐ温かさは特別なように感じた。
 
 目の前には天井から吊るされている自在(じざい)(かぎ)があり、見ていると、何故か薪が燃えて五徳(ごとく)の上に網が乗っている光景が目に浮かんだ。
 網の上ではネギと大根が焼かれていた。
 皿の上には前沢牛が出番を待っていた。
 その周りには串に刺したヤマメが(あぶ)られていた。
 脂が一滴落ちた。
 その瞬間、五徳の上が鍋に変わった。
 郷土料理の『ひっつみ』だった。
 小麦粉をこねて薄く伸ばしたものを手で引きちぎって、野菜やキノコや鶏肉などと一緒に煮込む料理だ。
 温かい湯気が鼻をくすぐると、カツオ出汁の香りがお腹の虫を刺激した。
 さあ、腹いっぱい食べるぞ! 
 口の中は唾液で溢れそうになっていた。
 
「気に入っていただけましたか?」
 えっ? 
 白昼夢と現実の狭間で自らの置かれている状況が一瞬わからなくなり、火の気のない囲炉裏が目に戻ってくるまで少し時間がかかった。
「いや~、いいですね」
 何事もなかったように声を取り繕った。
「では、」
 オーナーが決断を促した。
 男は立ち上がって、彼の手を握った。
 契約成立の瞬間だった。

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