『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 部屋が沈鬱な雰囲気に包まれた。
 ガックリとうなだれている社員もいた。
 その心情は理解できたが、なんとかわかってもらわなければならない。
 声が暗くならないように気をつけながら話を続けた。
「10万円しか支払えないことに社長として忸怩(じくじ)たるものがあります。しかし、岩手で農業に従事していただければ月に17万円の収入が付加されることになります。計27万円です。これでなんとか当面の間凌いでいただけないでしょうか」
 社員は顔を見合わせた。
 その顔色は、既に心を決めている者と悩んでいる者の二通りに別れているように見えた。
 
「いつ決断すればいいのですか?」
 今年結婚したばかりの男性社員だった。
「今日です。それも今すぐ」
「そんなの無理ですよ!」
 食ってかかるような目で強く睨まれた。
 当然だ。無理なことを言っているのだ。
 しかし、理解してもらわなければならない。
 状況が緊迫していることを訴えた。
「もし明日、緊急事態宣言が出れば岩手への移動が難しくなります。そうなると、岩手で仕事をすることはできなくなります。緊急事態宣言が出る前に向こうへ行かなければならないのです」
「そんな……」
 彼は唖然として口が開きっぱなしになった。
「私は行きます」
 昨年入社した20代半ばの女性社員だった。
「社長から概要を聞いて、すぐに準備を始めました。行けと言われればいつでも行くことができます」
「私も」
 20代の男性社員2名と女性社員2名がほぼ同時に声を上げた。
 独身社員5名は全員岩手行きを了承した。
 あとは既婚者5名だ。

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