後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 翌朝一番の新幹線で東京へ戻った。
 社員の意思を確認するためだ。
 
 全員が集まった会議室は張り詰めたような空気に支配されていた。
 男はできる限り自然な笑顔に見えるように努めて社員に向き合った。
 岩手へ行く前に『岩手での農業従事と本社移転』を説明して一応の理解はしてもらっていたが、給料面での提案を加えて再度説明し、彼らの最終判断を聞き出さなければならない。
 社員の心にすっと入っていくように、普段とは違う丁寧な言葉遣いを心がけて説明した。
 
「昨日、現地を確認してきました。オーナーの人柄は信頼でき、労働環境も素晴らしいものでした。更に、築百年の古民家は期待以上のものでした。皆さんを一時的に送り出す場所としては、これ以上はないと思いました」
 ほとんどの社員に安堵の表情が浮かんだように見えた。
 しかし、本題はこれからだった。
 厳しいことを言わなければならない。
「会社存続の岐路に立っています。当分の間売上の目処は立ちそうもありません。しかし、その間にも経費はどんどん出て行きます。信用組合の融資枠は確保していますが、今の状態が何か月も続けば会社は持ちません。そこで、本社を私の自宅に移すことにしました。これで年間780万円が節約できます。次は人件費です。皆さんに支払っている給料や諸経費です。給料を全額支払いたいのはやまやまなのですが、今の状態ではそれは不可能と言わざるを得ません。経理担当役員と検討した結果、月額10万円の支払いがギリギリだという結論になりました。あと、賞与ですが……、残念ながら支払うことはできません」
 その瞬間、全員の顔に〈唖然〉という字が浮かんだように見えた。
 男は急いで言葉を継いだ。
「しかし、それはコロナ騒動が続く間の措置であって、騒動が収まり売上が回復していけば、また元の給料と賞与を支払いたいと思っています」
 しかし、黙っていられないというふうに担当役員が厳しい声を出した。
「経理を扱っている私は反対しました。半分の5万円でも難しいと強調しました。しかし、『せめて家賃相当分を支払いたい』と社長が言われるので私が折れたのです。そのくらい厳しい状況に置かれていることを承知ください」

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