後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 ベーカリーのご主人は陽性だった。
 奥さんとアルバイト全員が濃厚接触者として2週間の自宅待機を求められた。
 奥さんはすぐにPCR検査をして欲しいと訴えたが、受けさせてはもらえなかった。
 どうして? 
 仕事も寝室も共にしている夫が陽性なのに何故受けられないの? 
 奥さんは食ってかかったが、発熱や咳などの症状がない人は自宅待機で様子を見てもらっているという説明しか返ってこなかった。
 そのやりとりを憤慨した表情でぶちまけた奥さんの顔は歪んでいた。
 しかしそれも少しの間だった。
 なんの前触れもなく、奥さんは頭を抱えるようにしてうずくまった。
 夫のこと、自分のこと、店のこと、心配なことだらけで八方塞がりの状況が奥さんを追い込んでいるようだった。
 それにお客さんのことがある。
 ご主人はほとんどの時間厨房にいたので客と直接触れ合う機会は少なかったが、奥さんとアルバイトたちは常に客と接していた。
 万が一陽性なら、その影響は客にも及ぶことになる。
 もし連絡しなければならなくなったら大変なことになる。
 紙ベースのポイントカードは発行していたが顧客データベースは持っていないので、連絡する手段が無いのだ。
 アルバイトに支えられてなんとか奥さんが立ち上がったが、「もし誰かに症状が出たら」と言った途端、顔がまた大きく歪んだ。
 それはまるで恐怖に支配されているような青ざめた顔だった。
 
 女の精神状態も最悪だった。
 無収入になった上に自宅待機が重なるのだ。
 生活設計が根本から崩れることになる。
 感情のすべてが恐怖で占められた。

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