後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
「召し上がれ」
 奥さんがホットミルクティーとチーズケーキを女の目の前に置いた。
「頂き物なんだけど美味しいわよ」
 早く食べなさい、というように掌を差し出した。
 女は喉がカラカラだったので、ミルクティーを一口すすった。
 甘くて柔らかい優しさが口の中に満ちた。
 それで気持ちが落ち着いたので、フォークでチーズケーキを一口大に切って頬張った。
 コクのある濃厚な味わいが口の中に広がった。
 う~ん、おいしい。
 顔が綻んでいくのが自分でもわかった。
 食べ終わると、奥さんはさり気なく自分の近況を話し始めた。
 なんの質問もしない優しさが嬉しかったし、取り留めのない話が嬉しかった。
 そのせいか、心が温かくなった。
 すると表情が変化したのを察したのか、「庭に出る?」と誘われた。
 しかし、即座に首を横に振った。
 言葉が唇の手前まで出かかっていた。
 もう止められなかった。
 一気に話した。
 今までのことを全部話した。
 ピアノの仕事を失ったこと、ベーカリーのご主人が新型コロナに罹患したこと、濃厚接触者として2週間自宅待機していたこと、ベーカリーが廃業することになって職を失ったこと、そして、母が死んだ日に預金通帳に100万円が振り込まれていたこと、息を継ぐのを惜しむ勢いで一気に話した。
 
 奥さんは柔らかな表情で静かに聞いてくれた。
 途中で口を挟むこともなく、相槌を打つこともなく、同情を寄せることもなく、ただひたすら柔らかく受け止めてくれた。

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