『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 奥さんに急かされて、訳の分からないまま賃貸契約を解除して、女は花屋敷に引っ越した。
 あてがわれたのは八畳の客間だった。
 こんないい部屋を使っていいのか不安になったが、「訪ねてくる人もいないから丁度良かったのよ」とさり気なく心配を取り除いてくれた。
 
 荷物の整理が一段落した時、娘さんの部屋を見せてくれた。
 死んだ日のままにしているそうで、2階の八畳間にはアップライトピアノが置いてあった。
 幼稚園の頃から習い始めて、音大を卒業したあと、中学校の音楽教師をしていたのだという。
 壁には額に入った賞状がいくつも飾られていた。
「色々なコンクールで優勝したのよ」と懐かしむように微笑んだ。
 ピアノの上には三人で写った写真がいくつも置いてあった。
 どちらかというとご主人似の顔をしていた。
 目に入れても痛くないほど可愛くてたまらなかったに違いない。
 写真の中のご主人の顔は目尻も口元も思い切り緩んでいた。
 それから、数は少ないが大人数で写っている写真もあった。
 椅子に座った老夫婦の肩に手をかけて娘さんが笑っていた。
 
「私の実家に帰省した時のものよ」
 その時初めて奥さんの実家が岩手県の田舎にあることを知った。
「もう二人とも死んじゃったから空き家になっているんだけどね」
 古い家の前で撮った写真を指差した。
 明治の末期に建てられたもので、築100年を超えているのだという。
「今年は帰ってないから……」
 家の様子が心配そうだった。
「人が住んでいないと家は傷みやすくなるからね」
 特に水回りのことが心配だと顔をしかめた。排水などの古い水が管に残っていると腐食に繋がるし、パッキンなども劣化が進むのだそうだ。
 それに、空気の入れ替えをしないとカビなどが発生しやすいし、人気(ひとけ)がないとネズミなどが住み着く可能性だってあるらしい。
「でも、今帰るわけにはいかないし……」
 新型コロナが終息するまでは動けない、ともどかしそうに溜息を漏らした。
 それでも、気を取り直そうとするかのように写真を見つめて笑みを浮かべた。
「いい所よ、とってもいい所なの」
 都会と違って文化的な生活には程遠いが、自然に囲まれて生活していると心が解放されるのだそうだ。
 特に、雪に閉ざされた冬が終わって一気に花が咲き誇る春がやってくると、言葉に表せないほど幸せな気持ちになるのだと目を輝かせた。
「帰れるようになったら一緒に行きましょうね」
 実家の写真に視線を落として、目を細めた。


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