後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
男、そして、女
          ♪ 男 ♪

 夜遅くに社員からのメールを受け取った男は、派遣先が大変なことになろうとしているのを初めて知った。
 厳しいだろうということはわかっていたが、事態はそれを遥かに超えていた。
 放置しておけば経営に大きなダメージを受けるのは確実だったし、社員7名の雇用継続が危うくなるのは目に見えていた。
 それに、慎重に検討する余裕がないことも確かだった。
 
 法人顧客推進派と富裕層個人客推進派の双方の意見を見比べた。
 どちらも重要な指摘がなされていたし、どちらを選んでも不正解とは思わなかった。
 B to Bについては既にルートを持っているのだから、取引スーパーを拡大するのは容易だろう。
 しかし、既存取引先の高級スーパーの反発は必至だろうし、取引中止という最悪のケースもあり得るかもしれない。
 安売りスーパーとの差別化のためにこのハウスから仕入れているのだから、それが崩れるとなると協力関係は消滅してしまうだろう。
 それに、高級ホテルの購買にも影響が及ぶかもしれない。
 高級食材を使っていることを謳い文句にしているのに、それが安売りスーパーの棚に並んでいると知ったら評判に傷がつくのは明白だ。
 レピュテーション(評判)・ビジネスの最先端をいく高級ホテルにとって見逃すことができない事態になるだろう。
 安売りスーパーとの取引を安易に選択することは危険だ。
 
 では、どうする? 
 富裕層個人客の開拓を選ぶか? 
 いや、それは時間がかかり過ぎる。
 名簿を持つ企業を探し当て、交渉し、それからビジネスモデルを作っていく時間的な余裕はない。
 ハウスでは日に日に出荷が減っており、資金繰りが悪化しているのだ。
 何週間かかるか、何か月かかるかわからないことに時間を費やしている場合ではない。
 
 う~ん、富裕層の顧客名簿さえあれば……、
 男は頭を抱えた。
 顧客名簿、顧客名簿、顧客名簿、
 すぐに活用できる顧客名簿、う~ん、
 ブツブツ言いながら狭い自宅の中を歩き回った。
 グルグルグルグル歩き回った。
 しかし、何も思いつかなかったし、なんの伝手も思い浮かばなかった。
 う~ん……、
 日付が変わっても唸り声が収まることはなかった。

< 214 / 373 >

この作品をシェア

pagetop