『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 ん? 
 優良顧客?
 あっ、優良顧客だ。
 自社に優良顧客がいた。
 優良顧客のデータベースを持っていた。
 毎年利用してくれている顧客、年に何度も利用してくれる上得意客が少なからずいるのに、なんで気づかなかったのだろう?
 
 レターボックスから葉書の束を取り出した。
 全部礼状だった。
 旅を満喫した顧客がお礼の絵葉書を送ってくれるのだ。
 男はそれを大事に取ってあった。
 一つ一つ読み返すと、すべてに笑顔が感じられた。
 
 男は礼状を貰う度に感激して、読み終えると頭を下げるのが常だった。
 この一人一人のお客様が会社を支えてくれているのだと思うと、いつも涙が出てきそうになった。
 彼らは今どうしているのだろう? 
 旅行ができなくなって、外出自粛でレストランでの食事やデパートでの買い物ができなくなって、ストレスを感じているのではないだろうか。
 それなら、今こそお返しをしなければならない。窮屈な自粛生活の中に潤いをお届けしなければならない。
 
 男は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をグルグルと歩き回った。
 すると、アイディアが止めどもなく溢れてきた。あれもできる、これもできる、あれもしたい、これもしたい、気がつくとアイディアが頭の中から溢れ出して床の上を泳ぎ回っていた。
 それを両手ですくって口の中に入れ、もう一度体の中に戻した。そして、To Do Listに打ち込んでいった。

 ・岩手での農業体験の日記的発信
 ・古民家共同生活の日記的発信
 ・岩手県内の魅力発信
 ・最上位顧客へのテストマーケティングと検証
 ・本格マーケティングの実施
 ・岩手県内の古民家の開拓
 ・ポストコロナ時代の新しい旅行の提案
 ・新しいビジネスモデルの構築
 ・その他、あれやこれや
 
 夢中になって企画をインプットしていたら、突然スマホが動いた。
 邪魔されないようにマナーモードにしていたので震えるように動いていた。
 受話器のアイコンを右にスライドすると、リーダー格の社員の声が聞こえてきた。
 
 一気にアイディアを開陳(かいちん)しようかと思ったが、齟齬(そご)がないかの確認とまとめ直す時間が必要と思い、一旦電話を切った。
 そして、To Do Listを何度か見直して修正を加え、彼らの昼休みが終わる15分前に掛け直し、できるだけ落ち着いた声でゆっくりとアイディアを説明した。
 
 彼は息を呑んで聞いているようだった。
 一つの説明が終わるたびに、なるほど、と相槌を打った。
 すべてを説明し終わった時、驚嘆するような声が聞こえてきた。
 耳が痛くなるほどの大きな声だった。
 それからしばらくは、周りに話している声が聞こえた。
 男のアイディアをかいつまんで説明しているようだった。
 そしてやっと、声が戻ってきた。
 「ありがとうございました。はっきりとした方向性が見えました。こちらで出来ることはすぐに着手します」
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