『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
「これ、どうしたのですか?」
 左手に真っ赤なトマト、右手に深緑色のズッキーニを持った女は、箱の中にびっしり詰まっている色々な野菜に目を奪われた。
「凄いでしょう。おいしそうでしょう」
 奥さんもトマトとズッキーニを持って、どうしてか得意そうな顔をしていた。
「夫が退職してからよく旅行に行ってたのよ。いつも利用していた旅行代理店がね……」

 団体旅行や有名な観光地を避けて穴場のようなところを探していた二人は、たまたま小さな旅行会社のサイトに巡り合い、一度利用したらとてもいいので、それからは毎回その会社のプランに乗ったのだという。
 その会社が新型コロナウイルスによる経営危機を乗り切るために岩手県のハウス野菜栽培会社に社員を派遣したそうだ。
 社員は古民家に泊まり込み、日々野菜の収穫を手伝っているのだが、その経験を、緊急事態宣言で外出自粛を余儀なくされている顧客と共有したいとメルマガを始めたらしい。
 そのうち、その野菜をなんとか売ってもらえないかという顧客からの要望が増え、遂に野菜の直販を始めたのだという。
 それを知った奥さんは真っ先に注文を入れ、それが今日届いたのだ。

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