後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
「家に来てもらったら?」
 奥さんの意外な言葉に驚いた。
「来てもらうって……」
 豆鉄砲を食らったような顔をしているであろう自分に更に驚く言葉が投げかけられた。
「週に1回、ピアノを教えてあげるのってどう?」
 食事前後にただ相手をしてあげるのではなく、目的を持って生活する楽しさを味わってもらったらいいのではないかというのだ。
「それに、両手の指をすべて使うピアノは脳の発達にとてもいいっていうじゃない。特にHQに効果があるらしいわよ」
 HQとは〈人間性知能〉のことで、夢や目的に向かって行動する能力や思いやりとか協調性とかを身に着ける能力などのことをいうのだそうだ。
「有名大学の合格者にピアノを習っている人が多いって聞いたことがあるわ」
 指を10本使うだけでなく、楽譜を見ながら演奏するということは目と指と脳が連動しなければできないから、とても高度な訓練になるのだという。

 幼い頃からピアノを弾いてきた女だったが、そんな理論的なことは一度も聞いたことがなかったし、考えたこともなかった。
 生まれた時から身近にピアノがあり、両親がピアノを弾き、自然に自分も弾けるようになったから、楽譜を見ながらピアノを弾くのはごく自然なこととしか思っていなかった。
 でもそうではないらしい。
 脳に対して優れた訓練機能があることを初めて知った。
 
「あなたがちゃんと受験勉強していたら東大へ行っていたかも知れないわね」
 茶化すふうではなく、真剣にそう思っているというニュアンスが込められていたので、なんだか嬉しくなって照れてしまった。
「とにかく、よく考えてみて」
 奥さんはさり気なく女の肩に手を置いて、二度ほど柔らかく揉むように動かしたあと、ポンと優しく叩いた。
 そして、暗くなった庭に目をやって、カーテンをゆっくりと閉めた。


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