後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 役員が言う通り、男は社員に対して常に顧客の傍で仕事をするように促していた。
 しかし、わかったような顔をして頷いている社員を見ながら、本当に理解させるためには命令や指示では無理なんだろうな、とも思っていた。
 特に、ネット上のやり取りで済んでしまう日々の業務の中で、見たこともない顧客の存在をイメージさせることは容易なことではなかった。
 
 そんなことを思い悩んでいた2年前の春、顧客から封筒で礼状が届いた。
 60代後半の女性からだった。
 長い間病気で入院していたご主人の病状が少し良くなり、一時帰宅を許された時のことが書かれていた。
 肺癌治療でやせ細ったご主人を連れ戻った奥さんは、家でゆっくりしてもらおうと思っていたのだが、ご主人は旅行に行きたいと言い張ったそうだ。
 大部屋の病室で何年も過ごしたあとだっただけに、外の空気を胸いっぱい吸いたいと望んだという。
 しかし、車椅子での移動しかできない状態で旅行へ行くのは無理だと奥さんは反対した。
 それでも、絶対に行くと言って聞かなかったため、離れて暮らす娘に頼んで、車椅子でも行ける旅行を探したらしい。
 
 娘は父親の願いを叶えようと必死になって探したが、母親が望むような旅行プランは見つからなかった。
 しかし、諦めかけた時に偶然我が社のサイトに辿り着いた。
 そこには、『看護師資格を持つスタッフがお世話する安心旅行』というプランが掲示されていた。
 娘は内容を確認したあと、早速母親に連絡し、すぐに申し込んだのだという。

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