後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 そんな厳しい状況だったが、元気づけるために色々なことを考えて実行した。
 その一つが特大の模造紙だった。
 それに拡大コピーしたイタリアの地図を貼って、ミラノからシチリアに至る主要各都市の観光スポットの写真を貼り付け、それを見ながら、ミラノでは何を買おう、フィレンツェでは何を見よう、ローマでは何をしよう、ナポリでは何を食べよう、シチリアではどこへ行こう、と新婚旅行のプランを話し合った。
 その時だけは彼女の顔が明るく輝いた。
 その表情を見て、これは最高の治療ではないかと思うようになった。
 抗がん剤よりよく効く治療薬、それは〈明るい希望〉に違いないと思ったのだ。
 新婚旅行に行きたいという強い想いが彼女の免疫を活性化させ、癌細胞をやっつけてくれると思ったのだ。
 
 その願いが通じたのか、小康状態が訪れて彼女の顔色が少し明るくなった。
 男はそのチャンスを逃すまいと〈明るい希望〉を投与し続けた。
 ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、シチリアに関する書籍を持ち込んでは彼女と2人でページをめくった。
 彼女もそれに反応した。
 白血病なんかに負けていられない、そんな強い気持ちが再度漲るようになった。
 それを見て、このまま完全緩解へ向かうと男は信じた。
 そして、退院できる日が来ると信じた。
 しかし、それは、束の間の贈り物でしかなかった。
 全身状態の悪化か薬の副作用かわからないが、呼吸をするのが苦しいと訴え出したのだ。
 
 酸素マスクを装着された彼女はもう身動きができなくなった。
 上半身を起こしてベッドの上で新婚旅行ごっこをすることさえできなくなってしまった。〈明るい希望〉という名の薬を飲ませることはもうできなくなった。
 男にできることは、彼女の手を握ることと、ただ祈ることだけになってしまった。

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