後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 日付が変わっても仕事には戻れなかった。
 その後は毎朝会社に電話して有給休暇を取り続けた。
 しかし、それにも限界がある。
 有給休暇はいつか使い終わる。
 
 机の引き出しから便箋と封筒を出して、ボールペンを握った。
 しかし、ミミズのような文字しか書けなかった。
 それでも書き直す気力はなく、そのまま便箋を折り畳んで封筒の中に入れた。
 
 有給休暇を使い果たした翌日、久し振りに外出した。
 太陽がまぶしかった。
 足を引きずるようにして会社へ向かった。
 
 無言で上司に封筒を渡した。
 中から便箋を出した彼は〈一身上の都合〉という文字を目で追った。
 そして、「わかった」とだけ言って席を立った。
 引き止められることはなかった。
 引き継ぎさえ求められなかった。
 代わりはいくらでもいるし、自分の仕事は誰にでもできるのだ。
 私物をバックパックに詰め込んで出口へ向かったが、誰からも声をかけられなかった。
 可哀そうに、という視線だけを背中に感じながら会社をあとにした。

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