後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 肌寒い朝だった。
 窓が雨粒で濡れていた。
 それを見ていると、彼女の涙のような気がした。
 
 小降りになった10時過ぎにホテルを出て、近くのカフェに入った。
 クロワッサンを一口かじってカプチーノをすすったが、なんの味もしなかった。
 昨日から何も食べていないのに、かじりかけのクロワッサンもカプチーノにも手が伸びなかった。
 
 小銭を置いて店を出て、霧雨の中を少し歩いてバス停に立った。
 昨日と同じ時刻のバスに乗ると、見覚えのある顔がこちらを向いた。
 すると、あらっ、というような表情が浮かんだが、すぐに「ボンジョルノ」と明るい声で微笑んだ。
 しかし男は暗い声しか返せなかった。
 昨日と同じ2列目に座ったが、ルームミラーは見なかった。
 
 車内には陽気な音楽が流れていた。
 天気にそぐわない明るいメロディで馴染めなかったが、雨に煙る景色をぼんやりと眺めていると、曲が変わった。
 イタリア語で歌われるとても静かな曲で、雨の日にピッタリのそぼ降るメロディだった。
 それに抱かれていると、フェードアウトして曲が変わった。
 大好きな曲だった。
『YOUR SONG』
 思わずルームミラーを見ると、運転手が男を見ていた。
 その口元が動くと、微かに声が聞こえてきた。
 歌詞を口ずさんでいるようだった。
 男はルームミラーから目が離せなくなった。
 曲が終わった時、運転手がルームミラー越しにウインクを投げたように見えた。
 それは男の目の中にすっと吸い込まれて、心の中に溶けて広がった。
 ありがとう。
 日本語で呟いた。

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