後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
 寒くて目が覚めた。
 まだ生きていた。
 彼女のところへは行けなかった。
 それが辛くて動けずにいたが、芯からの震えに促されて立ち上がった。
 そして重い足でバス停に向かった。
 
 暫くしてバスが来た。
 全身ずぶぬれの状態で乗り込んだ。
 偶然にも運転手はあの女性だった。
 乗車は拒否されなかった。
 発車するとすぐにバスの中が温かくなり始めた。
 空調を冷房から暖房に切り替えてくれたようだった。
 男の他には誰も乗っていなかった。
 運転手と2人だけだった。
 陽気なリズムがバスの中を支配していた。
 レゲエだった。
 スッチャカ、スッチャカ、弾むようなギターのカッティングが運転手の肩を揺らせていた。
 
 男が降りるバス停に到着した。
 ありがとう。
 日本語で言って頭を下げた。
 すると、ちょっと待って、というふうに運転手が男の二の腕に触った。
 そして、一語一語確かめるように言葉を発した。
 
「When one door of happiness closes, another opens」

 その言葉をもう一度ゆっくり口にして、男の腕をギュッと握った。
 そして、大丈夫よ、というふうに男の目を見て頷いた。
 
 ドアが開いた。
 男はバスを降りた。
 雨の中、遠ざかるバスを見送った。

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