後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 寝ているのか起きているのかわからないまま日付が変わり、7月1日になった。
 その途端、眠気はないのに瞼が重くなった。
 まるで誰かに無理矢理眠らされるように意識を失った。
 
 夢の中に彼女がいた。
 無機質なベッドに横たわっていた。
 ベッドサイドに置かれた日めくりのカレンダーの日付に記憶があった。彼女が亡くなる前日に違いなかった。
 手を握っていた。
 点滴チューブが繋がれているやせ細った手だった。
 酸素吸入マスクを通してくぐもった声が聞こえた。
「旅行に行きたい。あなたといろんな国を旅してみたい。あなたといろんな場所を見てみたい。いろんな料理を食べてみたい。いろんなお酒を飲んでみたい」
 肩で大きく息をした。
 話すのが辛そうだった。
「連れて行ってくれる?」
 弱々しい力で男の手を握った。
 同じくらいの力で握り返すと、僅かに頷いたような気がした。
 しかし疲れたのか、スローモーションのような速度で瞼を閉じた。
 その顔はやつれてはいたが美しかった。
 数えきれないほどキスをしたその唇はカサカサに乾いていたが、男が愛する美しい唇だった。
 手を握ったまま、顔を見続けたまま、じっと待った。
 瞼と口が開くのをじっと待った。
 
 暫くしてスローモーションのような速度で瞼が開いた。
「今ね、夢を見てたのよ。パレルモの海岸で2人並んで海を見ている夢」
 うふっと微かな笑い声が漏れた。
「沖に大きな船が浮かんでいたわ」
 遠くを見るように目を細めた。
「その船に向かって2人で泳いでいったの」
 また、うふっと声が漏れた。
「船に乗って空を見上げると飛行船が浮かんでいたの」
 瞳がほんの少し頭の方に動いた。
「気球に乗って飛行船まで上っていったの」
 また目を細める仕草をした。
「飛行船から下を見るとヨーロッパが全部見えたの」
 瞳がほんの少し顎の方に動いた。
「ここから見えるところへ全部行きたいって言ったらね……」
 瞳が男の方へ動いた。
「連れて行ってあげるよって、あなたが約束してくれたの」
 そして可能な限りの力を振り絞るかのように男の手を握った。
「あなたと旅がしたい……」
 声が掠れた。
 話すのはもう限界のようだった。
 それでも僅かに残った力で口を動かそうとしたので耳を近づけると、呟くような声が届いた。
「私の夢を叶えてくれる?」
 返事をしようと顔を上げた時、彼女の手から力が消えた。
 瞼は閉じられていた。
 微かな呼吸音だけが生きている証を示していた。
 
 …………

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