後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 目が覚めた。
 一瞬ここが何処かわからなかった。
 自分の部屋だと気づいて周りを見回したが、彼女はいなかった。
 さっきのことは夢でしかなかった。
 しかし、夢の中に出てきたのは間違いなく彼女との最後の瞬間を再現したものだった。
 なんの脚色もされていなかった。
 すべてが実際にあったことだった。
 
「私の夢を叶えてくれる?」
 最後の力を振り絞った言葉が蘇った。
 その時、ハッと気づいた。
 遺言に違いなかった。
 彼女は自らの夢をこの自分に託したのだ。
 
 そうだとしたら……、
 そうだとしたら、こんなことをしている場合ではない。
 こんなところで打ちひしがれている場合ではない。
 彼女の望みを叶えなければならない。
 なんとしても叶えなければならない。
 
 そう気づくと、全身に血が巡り始めた。
 脳が動き始めた。
 神経が、行動しろ! と命令していた。
 頬を両手で叩いて気合を入れた。
 洗面所に行って髭を剃り、顔を洗い、歯磨きをし、髪を整え、彼女が似合うと言ってくれたポロシャツとスラックスに着替え、忘れ物がないか確認して、バス停に急いだ。
 
 着いたのは8時31分だった。
 開いたばかりの税務署の窓口にはもう何人もの人が並んでいた。
 窓口で書類を受け取って近くの椅子に座り、『個人事業の開業・廃業等届出書』の記入項目を確認した。
 提出日、納税地、氏名、職業、屋号、届出の区分、所得の種類、開業日、開業に伴う青色申告などの届出の有無、事業の概要、給与等の支払の状況、その他参考事項。

 提出日は当日とした。
 7月1日。
 屋号は『YOUR DREAM』とした。
 彼女の夢を叶えるための事業だからだ。
 事業の概要は『ネット専業旅行代理業』とした。
 記入を終え、印鑑を押し、窓口に提出して税務署を出た。
 ふと見上げると、彼女の笑顔が空に浮かんでいるように見えた。

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