後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
「『ピアノの宿』というのはどう?」
「えっ? なんのことですか?」
 ボランティアが休みの日、家事が一段落してお茶を飲んでいる時だった。
 突然のことだったので言っていることの意味がわからず戸惑っていると、「岩手に帰ろうかなって思って」と意味ありげな笑みを浮かべた。
 
 メルマガとホームページに夢中になっている奥さんは、朝採れ野菜が届く度に「元気だ! 岩手だ! 野菜がうまい!」と口ずさんで踊るような仕草をした。
 その姿を見る度に笑ってしまったが、娘と夫の思い出が詰まった花屋敷にいる辛さを紛らわせているように見えなくもなかった。
 
「本気なんですか?」
 奥さんは頷いたあと、笑みが消えて寂しそうな目になった。
「あなたが同居してくれるようになって辛い気持ちは薄れてきたけど、『おやすみなさい』と言って自分の部屋に戻ると、娘や夫のことが1気に思い出されて眠れなくなるの。この家には思い出が多すぎる……」
 そして視線を外すように椅子から立ち上がって窓辺に立った。
「それにね」
 振り返った。
「あの人達みたいに新たな挑戦がしたいの」
 花屋敷を守るだけの人生から卒業したいのだという。
「夫が手塩にかけて育てた庭を手放すのは断腸の思いなんだけど……」
 視線を庭に戻した。色とりどりの紫陽花が咲き誇っていた。
「でもね」
 また振り返った。
「朽ちるだけの人生を過ごしたくないの。光に向かって生きていきたいの」
 強い意志が目の中に宿っているように見えた。
「一緒に岩手に行ってくれない?」
 今は誰も住んでいない実家を改造して2人で古民家宿をやりたいのだという。
 しかし、どう返事していいかわからなかった。
 口籠ったまま奥さんから視線を外した。

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