後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
          ♫ 女 ♫

「忘れ物はない? 大丈夫?」
 女が頷くと、奥さんの右手が車のキーを回した。
「住所を入力して」
 女がカーナビに目的地の住所を入力すると、奥さんがアクセルを踏み込んだ。
 7月7日の朝8時半、岩手へのドライブが始まった。

 奥さんから岩手行きを打診された時、即答できなかった女だが、奥さんと別れて東京に残るという選択肢を考えたわけではなかった。
 一度も行ったことがない岩手という土地に対するイメージがわかなかったのですぐに返事ができなかったのだ。
 岩手という見知らぬ土地でどういうふうな暮らしをするのか思い描くことができないのに、弾みで返事をすることはできなかった。
 
 その後、奥さんから具体的なプランを聞くにつれてイメージが固まってきて、打診された日から5日後に同意の気持ちを伝えた。

 7月1日に新車が届いた。
 鮮やかなライトグリーンの塗装が輝く軽のワンボックスカーだった。
 ご主人が生前乗っていた年代物の外車を処分して買い換えたのだという。
 狭い山道や舗装されていない道路に大きくて車高の低い外車は無理だし、荷物がいっぱい積めないと困るからというのが理由だった。
 
 7月6日に花屋敷の荷物をすべて送り出した。
 運送会社に4日間預かってもらって、10日に受け取ることになっている。
 その間に古民家の掃除と補修をしなければならない。
 そんな短期間に補修ができるのだろうかと気を揉んだが、「3年前に大規模な補修をしているので当面大きな工事は必要ないから大丈夫よ」と奥さんが安心させてくれた。

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