後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
「では、取り掛かります」
 右手で敬礼の真似をしてから父の形見の黒いケースを開けると、懐かしい工具が現れた。
 チューニング・ハンマーチップ、チューニング・ハンマーヘッド、チップアダプター・レンチ、ハープシコードチューニングハンマー、音叉、チューナー、調律用ウェッジ、アクションスクリュードライバー、コンビネーションハンドル、アクション調整工具、センターピン工具、整音工具、調弦工具、鍵盤修理工具、ハンマーシャンク工具、計測器、定規、カッター、治具、どれもピアノの調律に必要な工具だった。
 
 父の仕事に定休日はなかった。
 日曜日に仕事が入ることも少なくなかった。
 そんな時、女は一緒にお客さんの家に連れて行ってもらった。
 父の仕事を傍で見るのが大好きだったからだ。
 音程が狂ったピアノが、父が手を入れることで本来の姿を取り戻す過程にドキドキした。
 
 幼い頃は父が魔法使いだと思ったことがある。
 父の手に掛かればどんなピアノでも美しい音を取り戻すからだ。
 これを魔法と言わずしてなんと言えよう。
 別の言葉に置き換えるのは不可能だった。
 それほど鮮やかな手さばきだった。
 女は見惚れながらも父の仕事を細かく観察した。
 そして、質問攻めにした。
 父は嬉しそうな表情で答えてくれた。
 自分の仕事に関心を持つ娘の存在が励みになっていたのだろう。
 そんなことを思い出していると、父の声が蘇ってきた。

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