後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
「アマルフィに来たかったの」
 彼女が耳元で囁いた。
 その声はダイヤモンドダストとなって耳の中に吸い込まれていった。
 薄明りが2人を覆っていたが、まだ星は見えなかった。
 潮騒以外物音一つしなかった。
 男はじっとして彼女の言葉を待った。
 しかし、二度と声を発することはなかった。
 
 突然、真上で星が瞬いた。
 気づいた彼女がのけ反るようにして見上げると、それを待っていたかのようにもう一度瞬いた。
 しかしそれ以上瞬くことはなかった。
 彼女は静かに体を戻して唇を重ね、そのままの状態で唇が動いた。
 あ・り・が・と・う。
 でもそれはサヨナラの合図だった。
 彼女の体が軽くなったと思ったら、顔から色が消え、顔の輪郭がぼやけてきた。
 唇が消え、鼻が消え、最後に瞳が消えた。
 すると、重さを感じなくなった。
 でも彼女は体の上にいた。
 心臓の上にとどまる魂をそっと両手で包み込むと、掌がほんの少し温かくなった。
 しかし、掌の中で揺れると、指の間からゆっくりと抜け出ていった。
 
 1メートルほど上ったところで彼女が止まった。
 それはまるで男を見ているようだったし、名残惜しそうな感じだった。
 しかし、それが続くことはなく、星に向かって少しずつ高度を上げて小さくなっていった。
 そして星に吸い込まれた瞬間、あのメロディが耳の中で鳴った。
『Time to say goodbye』
 フェードアウトに合わせるように星が消えた。


< 344 / 373 >

この作品をシェア

pagetop