『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 しかしその時、記憶が蘇ってきた。
 ドアポケットに秘密兵器が入っていることを思い出した。
 それは、ネル生地でくるんであるはずだった。
 それは、この車を買う時にディーラーの営業担当者から勧められたものだった。
「万が一の時に助かりますよ」と勧められたのだ。
 すぐに右手を伸ばした。
 何かに触れたので掴んで取り出すと、ネル生地でくるんだものが手の中にあった。
 それを太腿の上に置いて、ネル生地から出すと、オレンジ色の筒のようなものが現れた。
 シートベルトカッターだった。
 シートベルトに引っ掛けてそのまま引くだけで切れる、と彼が説明したことを思い出した。
 
 その通りにやった。
 切れた。
 シートベルトから解放された男は、彼の顔を思い浮かべて頭を下げた。
 その時は余計なものを売り付けられたと思ったが、そうではなかった。緊急事態に役立つ必需品だった。それに、ドアポケットに入れておくように勧めたのも彼だった。
「シートベルトが固定されて身動きできなくなった時、手が届くのはドアポケットしかありません」と言ったのだ。
 グローブボックスに入れていたら手にすることもできなかった。
 貴重なアドバイスをくれた営業マンにもう一度頭を下げた。

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