『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 水が流れていた。
 沢のようだった。冷たい水が靴とパンツの裾を濡らした。
 運転席側に廻って山側を見上げると、急な斜面が男を見下ろしていた。
 この上から落ちてきたのだ。
 ここを登るのが最短だがそれは無理なようだった。
 
 ではどうする? 
 位置関係を頭に描くと、落ちる直前に前方に開けた所が見えたことを思い出した。
 そこが目指す場所だったが、その手前で転落した。
 ということは、斜め前方に上って行けばクライアントの家に辿り着けることになる。
 視界には暗闇しかなかったが、それしかないと心を決めた。
 
 問題は助手席の社員だった。
 ここに取り残していくわけにはいかない。
 しかし、気を失った社員を担いで斜面を登ることはできない。
 足を滑らせて諸共(もろとも)落ちれば一巻の終わりだ。
 彼を残して一人で行くしかない。
 男は叩き付ける雨に打たれながら、斜面を上り始めた。


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