『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 湿原が見えた。
 無数の沼が点在していた。
 幻想的な景色に目を奪われた。
 八幡(はちまん)(たい)だった。

 スライドが変わった。
 深い穴が見えた。
 鍾乳洞(しょうにゅうどう)のようだった。
 水も見えた。
 透き通った水だ。
 地底湖のようだった。
 (りゅう)(せん)(どう)に違いなかった。

 またスライドが変わった。
 穏やかな入り江の中に鋭く尖った岩が林立(りんりつ)していた。
 その岩肌をアカマツが覆っていた。
 浄土ヶ浜(じょうどがはま)だった。

 沼に地底湖に浄土……、
 やはり向こう側に行こうとしているのだろうか、
 そう思うと、体が前方に引っ張られた気がした。

 その時、またスライドが変わった。
 石でできた鳥居が見えた。
 その先に大きな屋根の本堂が見えた。
 中尊寺(ちゅうそんじ)だった。
 敵味方なく霊を慰める所。

 霊か……、
 呟くと、体が更に前に引っ張られたような気がした。

 するとまたスライドが変わった。
 広間に大勢の人が集まっていて、大きなテーブルの上には朱に塗られた椀が高く積み上げられていた。
 わんこそばの早食い競争だった。
 物凄いスピードで食べる若い男女を感心して見ていると、いきなり男の口にそばが放り込まれた。
 訳がわからず飲み込もうとしたが、喉に詰まりそうになってむせた。
 その瞬間、斜面で木の根元を掴んでいる左手が見えた。
 現世に戻っていた。
 
 そうだった。
 まだ死ぬわけにはいかない。
 車に取り残された社員を助け出さなければならない。
 そして、岩手県の産業・観光促進事業を形にするという使命を果たさなければならない。
 どこかに残っているかもしれないエネルギーを探して、細胞に喝を入れた。

 しかし、そんなものはどこにも残っていなかった。
 現世に戻る時、エネルギーを使い果たしてしまったようだ。
 左手が根元から離れ、瞼がスローモーションのように閉じ始めた。


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