『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 男は両手両足を伸ばしたうつぶせの状態で靄の中をふわふわと浮きながら、違う世界へ引き寄せられていた。
 蜜のような甘い匂いに誘われて、どんどん入口に近づいていった。
 すると、迎えるように扉が開き、手の先が中に入った。
 そして腕が、続いて頭が入ろうとした時、ピアノの音が聞こえた。
 懐かしいメロディだった。
 その優しいタッチに聞き覚えがあった。
 
 振り向くと、別の扉が見えた。
 音はほんの少し開いた隙間から聞こえてきているようだった。
 
 その扉に近づき、押し開いて中へ入ると、ワンピースを着た女性の後姿が見えた。
 ピンク地のワンピースだった。
 満開のスイートピーが優しい思い出を運んできた。
 あの時の……、
 記憶が蘇った時、背後で何かが閉まる音がした。
 振り返ると、違う世界へ行く扉が閉じていた。
 待ってくれ!
 慌ててそちらに向かおうとしたが、左手の小指が引っ張られて動けなくなった。
 それでも進もうとしたが、優しい歌声が男を止めた。
 エルトン・ジョンの声だった。
 それがヴェッキオ橋で歌う女性の声に変り、バスの運転手の声に変化した。
 そして、あの声になった。
 愛おしく懐かしい声だった。
 大切な、大切な、かけがえのない声だった。
 
 しかし、歌が終わって声が消えると、ピアノの音だけになった。
 そして、最後の音と共にピアニストの指が鍵盤から離れた。
 それでも余韻だけは残り続けた。
 大切な思い出をとどめるように、
 愛しい面影をとどめるように、
 長く残り続けた。
 
 ありがとう。
 呟いた男は後姿に向かって拍手を送った。
 心を込めて贈った。
 するとピアニストの肩が揺れ、
 秒が刻まれたあと、
 息を吐く音と共に体ごとゆっくりと振り向き始めた。
 
 ショートヘアが揺れた。
 愛らしい丸顔が見えた。
 懐かしい笑みが浮かんだ。
 左の頬にえくぼができた。
 彼女だった。



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