後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 着替えをするために一度アパートに戻った。
 夕方からはピアニストになるのだからジーパンでピアノを弾くわけにはいかない。
 だからビニール製の簡易クローゼットからワンピースを取り出した。
 花柄のワンピース。
 選んだのはピンク地のもので、季節の花、スイートピーが咲いている。
 花言葉は『優しい思い出』
 あの人に会えるかもしれないと思って選んだ服。
 
 今日も品川駅で降りた。
 あのホテルのカフェラウンジが仕事場だ。
 夕方5時から夜10時まで5時間の仕事。
 時給は1,500円なので1日7,500円。
 週3日、月12日だから、月に9万円。
 お酒を出す場所での演奏ならもう少し時給が高いが、酔客の相手をする気はまったくない。
 もう何年も前のことだが、酔った客2人に絡まれて嫌な経験をしたことがあるからだ。

 演奏が終わった時、席で一緒に飲もうと言い寄ってきたので、やんわりと断ると、いきなり胸とお尻を触られた。
 止めて下さいと叫んだつもりが声が出なかった。
 店長に訴えたら、それぐらいのことで大騒ぎするなとたしなめられた。
 フロアレディは日常茶飯事だと笑われた。
 その通りだった。
 さっきの客がチャイナドレスを着たフロアレディの足を触っていた。
 それを上手に笑いながらあしらっている彼女たちの時給は自分より高かったが、それには触られ代も入っているのだろうか? 
 そう思うと幻滅しか沸いてこなかった。
 その場で仕事を辞めると店長に告げた。
 いきなり辞められるのは困ると止められたが、無理だと言って押し切った。
 すると、勝手に辞めるんだから今日の分は払わないと言われた。
 思わず手が出そうになったが懸命に堪えていると、フロアから「姉ちゃ~ん」と呼ぶ声が聞こえた。
 バカヤローと叫びたくなったが、なんとか堪えて、思い切りキツイ目で酔客を睨みつけた。
 そして、店長に背中を向けて店を出た。
 

 ふ~、
 息を吐いて嫌な思い出を振り払って改札口の先の階段を駆け足で降りた。
 今日も品川駅の周りは人がいっぱいだ。
 こんなに大勢人がいるのに、わたしが知っている人は誰もいない。
 そして、わたしを知っている人も誰もいない。
 都会の孤独、
 わたしはストレンジャー、
 ビリー・ジョエルの歌が聞こえてきた。

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