後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 ラウンジに客はまばらだったが、演奏を始める時間になった。
 ピアノチェアに座って鍵盤に指を置き、目を瞑って頭の中にメロディが流れてくるまで待った。
 楽譜を見るのを良しとしないからだ。
 というより、そもそも楽譜を見ながら演奏するのは好きではない。
 感情が入らないからだ。
 音譜をなぞるような演奏に意味があるとは思えなかった。
 いや、それどころか観客を騙す行為だとさえ思った。
 プロなら完全に暗譜して演奏に臨むべきなのだ。
 いや、それも違う。
 覚えたものを再現しても意味はない。
 自らの血肉になっていないものは本物とは言えない。
 偽物とまでは言えないとしても、誰かの借り物にしか過ぎない。
 だから常に想いを込めて鍵盤と踊る。
 時には優しく、時には激しく、時には寂しく、時には喜びを爆発させ、時には悲しみに打ち震えて、鍵盤と踊る。

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