後姿のピアニスト ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 それはほとんど風のない晴れ渡った朝だった。
 いつものように花屋敷の前で立ち止まってミモザの蕾を見ていたら、玄関から出てきたご主人と目が合ってしまった。
「こんにちは」
 突然、挨拶されてしまった。
すぐに何か言おうとしたがうまく言葉が出てこなかった。
だから軽く頷くことしかできなかったが、「お花がお好きなんですね」とにこやかな笑顔で見つめられた。

 どう返せばいいかわからなかった。
 挨拶されただけでもドキドキしているのに気の利いた言葉なんて出てくるはずがなかった。
 それでもなんとか「いつも楽しませていただいています」と声を絞り出すと、「お見かけする度に声をかけようかなと思うんですが、若い女性に声をかけるのはちょっとね……」とはにかんだような表情になってミモザの方に向き直った。
 しかし、何故か急に愁いを帯びた表情になった。
「うちの娘もミモザが大好きでした。生きていたらあなた位の年齢になっていたはずなんですけど……」
 10年前に交通事故で亡くなったのだという。
「ごめんなさい、朝から変なこと話してしまって……」
 女が首を横に振ると、「花は枯れても毎年咲くけど、人は死んだら生き返らないんですよ」と寂しそうに笑った。
 それは娘を思う父親の顔だった。
 思わず父の面影が浮かんできたが、バイトに遅れるといけないのでこれ以上とどまることはできなかった。
 女はほんの少し頭を下げてから駅の方へ歩き出した。
 すると、背中に温かいものを感じた。
 それは娘を見送る父親の愛情溢れる眼差しだと思った。
 車に気を付けて、
 風邪ひかないように、
 早く帰っておいで、
 暖かくして待っているからね……。
 娘を失くした父親の視線が、父を亡くした女の背中をいつまでも追っていた。


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